高島藩に配流され生涯を終える ~松平忠輝、吉良義周、水野忠篤
諏訪の浮城と呼ばれた高島城は美濃出身の武将、日根野高吉が北条征伐の手柄で領地をもらい築城しましたが、関ケ原の戦いの後、中世を通じてこの地を支配した諏訪家が戻ってきました。残念ながら諏訪湖の干拓で湖畔は遠くなり、水城の面影は無いですが、続日本100名城の一つとして城好きは立ち寄られている方は多いと思います。
本丸の脇に当時作られた南丸は、兄の秀忠により改易された家康六男松平忠輝を配置する為に作られましたが、その後江戸期を通じて吉良義周、水野忠篤が配流されそれぞれこの地で生涯を終えました。
何故高島藩だったのかよくわかりませんが、恐らくは(1)遠国だと監視の目がとどきにくい(2)近隣に外様の大大名が居らず、万一担がれる心配が少ない(3)諏訪湖の浮城なので脱出しにくい、という事が理由だったと思います。
家康の子供は将軍家の藩屏として重要戦略拠点に配置されましたが、忠輝は越後高田に城を構え、次男秀康の越前家と共に加賀120万石を両側から挟み有事に備えました。大阪の陣の後、それまでの不遜な行跡を咎められて秀忠から改易されましたが、当時まだ24歳でした。古今東西、征服者の兄弟間の確執は枚挙に暇ないですが、越前松平家・忠輝の事例やその後起きた家光の弟、駿河大納言忠長の改易・切腹含め、御三家と彼らの間で何が理由で取り扱いが違ったのか興味深いです。兄弟でうまくやってた貴重な事例は、秀吉の弟秀長と観応の擾乱までの足利直義でしょうか。
忠輝は大変長生きで92歳まで生き、亡くなた時の将軍は5代綱吉でした。忠輝の菩提寺、諏訪貞松院のご住職は300回忌(1984年)で忠輝の赦免を思い立ち、当時の徳川家当主徳川恒孝氏にお願いして法要で赦免状を読まれたそうですが、このセレモニーに伊達家(伊達政宗は忠輝の舅)、諏訪家他家臣の子孫が400人集まったそうです。
吉良義周は所謂忠臣蔵事件の後処理で、スケープゴートとされた一番の被害者とも言えます。赤穂浪士に討ちとられた義父と共に襲撃を受け、刀を手に取り闘ったものの深手を負い気を失います。結果、武士としての備えがなっていないとの理由で改易され諏訪家預かりとなりましたが、この裁断には赤穂浪士を賞賛する世論も影響したようです。赤穂藩が改易され、仇討ちを遂げた忠義の士が切腹で、何故吉良家は無傷なんだ!という理屈でしょう。義周は上杉家からの養子(父は吉良上野介の実子)でしたが、病弱で高島城南丸に配流後3年で亡くなりました(享年21歳)。その4年後赤穂浅野家は旗本として復活し、吉良家は遠い一族(蒔田氏)が吉良を名乗るものの、義周の家は断絶しました。本当の判官贔屓は吉良家を応援すべきでした。
文京区後楽園駅近くに伝通院というお寺がありますが、家康のお母さん、於大の方の菩提があります。於大のご実家が水野家であり、とにかく多くの大名・旗本の家が有りますが、天保の改革を断行した老中水野忠邦は、徳川家斉の下で『天保の三佞人』と言われ公金を貪った水野忠篤を罷免し、高島城に配流しました。同じ水野でもかなり遠い縁戚になりますが、元を辿れば家康のお母さんと兄弟になります。忠邦は幕府の放漫財政を憂えて強烈な緊縮財政を取りましたが、功罪のうち罪が随分大きかったようです。偉くなって幕府の中枢で指揮を取ろうと志したわけですが、その為に領民や家臣に過大な負担を強いた事は責められるべきですし、実は経済音痴だったという点は致命的でした。
諏訪湖は中央高速のサービスエリアから全体がよく見えます。自分が配流されたなら、朝な夕なに湖と八ヶ岳を眺め、諏訪大社に参拝し、昼はゴルフ、夜は温泉・宴会を楽しんで過ごすんだろうなと不遜な事ばかり考えます。次回高島城を訪れる際は、吉良義周のお墓のある法華寺にお邪魔したいと思います。
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