佐久平の五稜郭 JUN,2024
五稜郭というと函館ですが、長野県佐久市にも小さな五稜郭があります。
小諸から小海線に沿って30分程車を走らせると佐久市田口という地域に入ります。信濃は江戸期には天領と幾つかの小藩に分かれていましたが、当地には大給松平家の分家1万6千石の内1万2千石の領地が有りました。当主松平乗謨(のりかた)は聡明な名門譜代大名として順調にキャリアを積んでいきますが、ペリー来航以降軍事力整備の重要性を感じていた彼は藩庁を三河奥殿から移し、龍岡城を築きました。
大きさは函館五稜郭の1/4で1万㎡程度(金沢城は30万㎡)ですが、中には田口小学校が建てられており、運動場も含めて学校としては十分な敷地になります。残念ながら昨年春(2023年)に統廃合で廃校となりました。今後の有効活用に期待したいところです。
乗謨はその後老中、陸軍総裁へと幕府内で栄達し明治維新を迎えますが、戊辰戦争を機に全ての職を辞し新政府に帰順しました。松平の姓を捨て大給恒(おぎゅうゆずる)を名乗り、明治政府に参画しましたが勲章制度の整備に貢献し昇勲局総裁となり、その功をもって子爵から伯爵に陞爵しました。大給松平家は三河に在った十八松平家の一つで譜代大名は四家有りましたが、伯爵になったのは当家だけでした。
彼の功績はもう一つあり、佐賀藩出身の佐野常民と博愛社(日本赤十字社前身)設立に貢献しました。
龍岡城の近くに大給松平家が位牌所とした蕃松院があります。ここには依田信蕃(のぶしげ)夫妻の墓とされる五輪塔が置かれています。真田は上田城で徳川の大軍を二度撃退しましたが、信蕃は武田の将として三河二俣城、駿河田中城を家康の猛攻から守り抜きました。
信長の武田領侵攻に際しては勝頼に最後まで忠義を尽くし、勝頼の自刃を確認した上で家康の配下に入りました。
信長が本能寺の変で倒れた後、徳川・上杉・北条による武田遺領争奪戦(天正壬午の乱)が始まりましたが信蕃はその渦中で戦死し、家康は信蕃の嫡男に松平の姓と小諸城6万石を与え、松平康国と名乗らせました。残念ながら康国はその後小田原征伐で戦死し、家督は弟の康勝に継がれますが同僚とのトラブルで改易となり、結城秀康に仕え子孫は福井松平家の家老となりました。
信濃、就中千曲川流域は河岸段丘に沿って旧石器時代からの遺跡(縄文・弥生・古墳を含む)は多く、何から見ていいのかいつも迷います。龍岡城近くに新海三社神社が有りますが、祭神が興味深いです。主祭神は興波岐命(おきはぎのみこと)でこの神様の父は諏訪大社の建御名方命(たけみなかた)、祖父は出雲の大國主命です。対馬海流に乗り、糸魚川・白馬経由信濃(諏訪・佐久)へと動いた人々や統治者が目に浮かびます。
神社なのに旧神宮寺の三重塔(重要文化財)が静かに佇んでます。永正十二年(1515)の銘があり禅宗様式が採り入れられた美しい塔ですが、廃仏毀釈の時には神社の宝庫で仏塔ではないとの説明で廃棄を逃れたとのことです。流石善光寺を有する長野県ですね。
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