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石高詐称の三様 ~ 松倉勝家、真田信利、大沢基寿


中世下野を領した宇都宮氏は『光る君へ』で悪役を演じる藤原道兼の末裔とも言われており、前九年の役に源頼義に随い以後土着しました。戦国期の宇都宮国綱はじりじりと勢力を削がれる中、豊臣秀吉への臣従に活路を見出し奥州仕置の後下野18万石を安堵されました。ところが秀吉晩年の慶長2年(1597年)に突如改易となり、宇喜多秀家預かりの身になってしまいました。改易の理由ははっきりとせず、嗣子のいなかった国綱の後に養子を入れようとして出来なかった浅野長政の讒言によるものとか、検地で自領を過少申告していた事がばれたといった背景が従来言われてます。それまで気前よく部下に領地を渡していた秀吉は、朝鮮出兵も順調に進まない中で改易や減封の理由をあれこれ探していたのではと想像しますが、翌年上杉景勝を会津に移封しましたので、家康への牽制にはならず嗣子もいない大名は不要との判断だったのではないでしょうか。江戸期に入ると石高に応じて参勤交代の規模や普請時の貢献が決められ、石高が増えると費用負担増につながり、皺寄せが領民に及ぶ事になります。殿様の見栄で過大な税負担を強いられたケースを3つ取り上げてみます。 


松倉家は元々大和の筒井順慶に仕えてましたが、重政の代で豊臣家直臣となり、関ケ原以降は家康に仕え大坂夏の陣での貢献により肥前日野江4万3千石に増封されました。この地に分不相応な城を構え幕府の指示に従いキリシタン弾圧に勤しみますが、重税と過酷な宗教弾圧が島原の乱への布石になりました。息子の勝家は10万石相当の年貢・労役を課し、凶作にも係わらず苛斂誅求を極め、遂には身重の庄屋の奥さんを捕まえ水牢に入れて親子共殺してしまった事が引き金になり1637年10月、農民は蜂起しました。家光は勝家を切腹ではなく、斬首刑に処しました。江戸期を通じ、斬首された大名はただ一人になります。 


真田信利の父は真田信吉、初代上田藩主信之の長子でしたが庶子でした。宗家は正室(小松姫、本多平八郎忠勝娘)の子信政が2代を継ぎ、その子幸道が3代藩主となりました。これに不満を持ち、信利は幕府に異議を唱え自分を藩主にすべきと主張しましたが通らず、結果沼田藩として独立しました。宗家松代藩は10万石でしたがこれに対抗するべく検地を行い、14万4千石と粉飾報告をします。実高6万石で倍以上の石高をベースに税金を搾り取った為に沼田藩では餓死者が出る事になり、両国橋改修普請に失敗し改易となりました。真田昌幸が上州進出の拠点とし、秀吉に小田原征伐の大義名分を与えた真田家沼田領は、信之の孫の愚行により全部失いました。将に築城三年落城一日です。 


大沢氏は南北朝時代に持明院家(道長六男頼宗子孫)から別れ遠江(浜名湖東岸)に土着しました。今川氏に仕えましたが桶狭間の後徳川家康に臣従、江戸期に入り高家旗本として朝廷・幕府間の調停役を担いました。明治維新後、20代当主大沢基寿は明治政府に対して実高(5,485石)に加えて浜名湖湖面の一部を開墾予定地として4,521石を報告し晴れて1万石を越え、堀江藩として立藩しました。本件は後に政府が再調査を行い虚偽の報告がばれて禁錮刑を受けました。基寿の狙いは大沢家が大名となり華族になる事でしたが、以後当家は士族に編入されました。


身分制度が厳格で家格が重視された時代だった故に起こった事件ですが、収入はありのままに申告し税金を払うのがいいですね。

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