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歴史と旅の記録


大内氏の残照 山口 ~ OCT,2026 ~
昨年末に瑠璃光寺の五重塔の修理が終わったと聞き、山口市訪問の機会を窺ってました。西ノ京と呼ばれたこの町は、かつて応仁の乱で廃墟となった京から逃げてきた公卿と文化の避難場所であり、日明貿易を中心に東アジアの交易主導権を握った大内氏の政庁が置かれました。山口市は毛利や幕末の史跡も多く大いに目移りしますが、500年近く前に滅んだ大内氏の史跡に焦点を絞り回遊することにしました。大友宗麟の弟晴英(はるひで)は母親が大内義興(大内氏15代)の娘であり、大内義長と名乗り山口に送り込まれ最後の当主となりました。彼は山口城下を見下ろす山上に詰城(いざという時に籠城する為の城)として高嶺城(こうのみねじょう)を築きましたが、毛利軍の侵攻の前に逃亡し且山城(かつやまじょう、下関市)迄逃げて自刃し大内氏は滅びました。山腹から見える山口盆地は2~3百メートル級の優しい山々に囲まれ箱庭の様です。 山口県は長門、周防の二国から構成されてますが、それぞれ国府跡は長府市、防府市に在り防府には国衙跡や1300年続く国分寺もあります。大内氏は周防の在庁官人の出自で12世紀から文献で
6 日前読了時間: 8分


秋の蓼科高原と茅野 ~OCT,2026~
11月は野放図にゴルフを入れてしまい、紅葉をゆっくり愛でる機会が乏しい事に気づきました。未だ早過ぎるとは思いましたが、標高の高い蓼科あたりなら少し楽しめるのではと淡い期待を抱きつつ茅野に向かう事にしました。横谷観音展望台からは晴れていれば左手に南アルプスの山々、正面に御嶽山、右手に穂高を含む北アルプスの山々が並ぶそうです。少し色づいてきた足元の山々や眼下に拡がる茅野の街だけでも十分な目の保養になります。左手のなだらかな山(入笠山)の向こう側には高遠城、そして伊那・木曽路に繋がります。 中央高速に乗り山梨県境を越えるといつも新田次郎の「武田信玄」を思い出します。この本は風・林・火・山の全四巻から出来てますが、中学生の頃二日間夢中になり読破した思い出があります。信玄が侵攻した信州は中小の豪族が盆地毎に乱立してましたが、その攻略の経緯を理解するには幾つか盛り込まれた地図や城の配置を示す挿絵がとても親切でした。 御子息の数学者、藤原正彦さんの本も面白く、幾つか読ませて頂いてます。 信玄は父親の信虎を駿河に追放し武田の家督を継ぎ、翌年諏訪に侵攻し
10月25日読了時間: 4分


甲斐源氏と武田氏の興亡 ~ 韮崎から甲府・塩山へ OCT,2026 ~
世界遺産に指定されたばかりの明日香を廻ろうと奈良の宿を取ってましたが、諸事情の為中止となり、されど快晴の下じっとしてられるわけもなく甲府盆地に向かいました。今年は秋田や常陸太田など“佐竹氏”故地への訪問が続いたので、同族の武田氏故地も確認しておこうという塩梅です。盆地南端の釜無川、笛吹川合流域にある市川三郷町には源義清公館跡があり、三条実美が揮毫した『甲斐源氏旧跡碑』が立ってます。 甲斐源氏は後三年の役で長兄の義家を援けて活躍した源(新羅三郎)義光から数えますが、彼は常陸介や甲斐守を歴任し関東に(河内)源氏の楔を打ち込みました。義光は常陸平氏との婚姻関係の構築を通じ所領を獲得し、嫡男義清は那珂郡武田郷を譲られ武田冠者を名乗り、その長男義業(よしなり)は那珂郡佐竹郷を継ぎ子孫は佐竹氏を名乗ります。義清はその後領地の境界トラブルで朝廷から譴責され甲斐国市河荘に息子達と配流されたとされ、これが甲斐源氏の始まりです(天承元年、1131年)。 義清と嫡男清光、そしてその子孫は盆地に散らばり土着していきましたが、常陸由来の武田の姓を引き継いだのが信義に
10月14日読了時間: 5分


美濃街道を抜けて奥越前へ ~SEP,2026~
帰省(金沢)ついでに走ったことの無い道を走りたくなり、郡上八幡から福井に通ずる美濃街道経由大野に入りました。街道沿いに建設途上の中部縦貫道が見え、29年春には東海北陸自動車道と繋がり福井と名古屋は略直線的に結ばれます。郡上藩は美濃と越前に領地が分散し統治が大変そうなイメージを持ってましたが、標高780mの油坂峠(あぶらさかとうげ)を越えて盆地に入る道を辿りつつ藩役人の苦労に共感しました。台風一過の初秋の盆地は刈入れ前の稲穂と共に、蕎麦の白い花があちこちに咲き誇ってます。 大ケヤキを見に専福寺に来ましたが、応仁二年(1468年)から始まる当寺はこのケヤキを目印に建てられたようです。樹齢800年とのことで、建立時は既に200歳以上経過した大木だったのでしょう。 奥越前の観光スポットというと永平寺と恐竜博物館ですが、大野・勝山には他に多くの史跡が有ります。永平寺は以前訪れた事も有り今回は遠慮し、最近「天空の城」として人気のある越前大野城をてくてく登り足腰の鍛錬が出来ました。 後に秀吉により飛騨高山に封ぜられる金森長近は、越前の一向一揆対策とし
9月27日読了時間: 7分


南部の飛び地は秋田県に入れられた 大館・鹿角 ~ SEP,2026 ~
関東地方はお盆前からだらだらと長い雨空が続いており、ゴルフも旅行も延期や中止が多いです。予約していた温泉宿は前線から遠く離れた青森県の奥入瀬近くにあり、久方ぶりの青空や乾いた爽やかな空気を満喫しました。今年の田舎館の田んぼアートのテーマは弘前の久渡寺(くどじ)に奉納された円山応挙の幽霊画です。 隣にはそれをモチーフに地元の漫画家石塚千尋さんが描いた令和版幽霊が描かれてます。何故幽霊画が田んぼアートに??と思いましたが、この幽霊画が応挙の真筆だと判明したのは最近(2021年)の事で、モデルは弘前藩家老森岡元徳(もりおかもとのり)のお妾さんだそう。この方は天明の大飢饉に際し賄賂を貰い遊興に耽ったのを咎められ、蟄居の上自害された方で何かドラマが有りそうです。 泊まった奥入瀬の奥にある宿は二年前に津軽回遊の拠点とした時と同じ蔦温泉です。大町桂月は晩年この宿ですごし、お酒の呑み過ぎで胃潰瘍で亡くなりました(1925年)。度々湯治に訪れていたアントニオ猪木夫妻は、同温泉が桂月の墓を大事に管理している事に感動して隣にお墓を建てました。 ...
9月20日読了時間: 6分


日光の世界遺産 ~ AUG,2026 ~
日光には三つの主要街道(日光街道、例幣使街道、会津西街道)が乗り入れてますが、その結節点に当たるのが今市です。何れの街道も17世紀に植樹された杉並木で整備されてましたが今でも2・3割残されて居り、その威容から江戸幕府が如何ほどこれらの街道を重視していたかがわかります。例幣使街道は朝廷から東照宮の例大祭に毎年派遣された使節が利用した道で中山道経由高崎から分かれて日光に繋がります。車でしばし厳かな並木道を楽しませてもらいました。 日光街道と例幣使街道が合流する地点に追分不動尊があり、3m近くの石造地蔵が安置されてます。近くを流れる大谷川の洪水で上流から流された石で造られたものとのこと。 大谷川の対岸には会津若松と今市を結ぶ下野街道(会津西街道)の起点もあり、保科正之は参勤交代途上で7回日光に参詣したそうです。 先日訪れた会津では下野街道を車で走りましたが、正之にとって日光は祖父(家康)が祀られる東照宮があるだけではなく、自分を一門として世に出し遇してくれた異母兄の家光の菩提(大猷院)も有り、とても素通り出来なかったことでしょう。 ...
8月21日読了時間: 6分


会津スタコラ紀行 ~AUG,2026~
会津には近年出張で来る機会は度々有りました。限られた時間の中では取り合えず鶴ヶ城の美しい石垣を愛でるくらいでしたので、今般会津盆地を一通り巡ってみる事にしました。鶴ヶ城には行きませんでしたが、飯盛山にある白虎隊自裁の地から城を眺めました。 新潟県の巨大河川のうち、阿賀野川(福島県内では阿賀川)は会津を取り囲む山々から集まった河川が広く盆地を潤しながら新潟県境を超えていくもので、会津の豊穣を担保してきました。源流の一つは猪苗代湖からのものですが、明治に入り降水量が少ない安積方面(郡山地域)に同湖から安積疎水が引かれ農業生産量が格段に増加しました。米沢・山形も潤沢な水系(最上川)に恵まれましたが、こうした豊かな盆地を拠点に最上・伊達・芦名といった有力な戦国大名が輩出されました。 古事記には当地は『相津』と書かれており、崇神天皇が国内四方面に皇族を派遣した四道将軍の記事に載ってます。北陸道を東進した大彦命(おおひこのみこと)と東海道を東上した建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が合流した地点であり、両将軍を主神とする伊佐須美神社が鎮座されてます。
8月8日読了時間: 9分


父には及ばず 長篠城と設楽原 ~ JUL,2026 ~
東三河を縦に流れる豊川は宇連川(うれがわ)と合流した後、西に向きを変え三河湾に注ぎます。長篠城はこの二川の合流点に築かれたもので、500人の兵で1万5千の武田軍の猛攻を防ぎました。徳川家康と織田信長連合軍3万8千はその報を受け救援に駆け付け、武田勝頼は決戦を選び設楽原で会戦となりました。歴史にifはつきものですが勝頼が自重し国境を固め国力を養っていれば、織田家は武田・上杉のプレッシャーを受けつつ本能寺の変を迎えていたかもしれません。 本丸跡の平地はせいぜい100m四方でしょうか。その他縄張りを概観しても城兵が500人という規模は納得できます。二つの川が囲む数十メートルの断崖は攻城容易ではなく、武田軍は強襲策を控え複数の砦で囲み、兵糧攻めで或る程度時間をかける意図だったようです。 断崖の反対側は丘陵地帯で、大通寺に馬場信春をはじめとする有力諸将が布陣しました。長篠城を見下ろし、川の対岸にある自軍砦との連絡も取りやすい場所です。 信玄が育てた古参諸将は、信長・家康連合軍の到来に際し勝頼に撤収を献策しましたが拒否され、出撃前に別れの盃を井戸水で交わし
7月25日読了時間: 7分


佐竹はここから始まった 常陸太田 ~ JUL,2026 ~
関東平野は広いですが、茨城県北部まで来ると阿武隈山系から連なる山々が迫ります。佐竹は源氏出身ながら源平合戦ではなかなか頼朝に服従せず、西金砂山(にしかなさやま)の山上に籠り頑強に抵抗しました。最後は味方の裏切りで落城しましたが、その後奥州合戦で活躍し鎌倉幕府体制に組み込まれていきます。現在城跡には西金砂神社が置かれ、四百メートル強の山ですが急峻な坂道を上った山上の本殿からは常陸北部の山々の眺望が楽しめます。 この城は長らく佐竹氏にとって、詰城として維持されました。本城の太田城が優勢な敵に囲まれた時に籠城するための城になります。 佐竹氏の家紋は扇に月が配われてますが、奥州合戦時に頼朝と同じ白旗(源氏を示す)を掲げて紛らわしいとのことで、頼朝から白旗の上に扇を掲げるように言われたのが始まりだそうです。5月に秋田市を回遊し江戸期の佐竹の旧跡を回りましたが、佐竹を理解するには片手落ちだと感じ今回発祥の地を訪れました。関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康により秋田への転封を命ぜられましたが、常陸を領していたのは470年間であり江戸時代の270年間より
7月12日読了時間: 7分


破竹の快進撃はここから始まった 新田義貞と少し志村けん ~ JUL, 2026 東村山~
元弘三年(1333年)五月八日新田義貞は生品神社(群馬県太田市)で挙兵、五月二十二日東勝寺において北条氏を滅ぼし鎌倉幕府を打倒しました。たった2週間で四度合戦し、その間およそ130kmを駆け抜けました。 新田軍は旗揚げ時僅か150騎ばかりでしたが、越後・甲斐・信濃の源氏郎党が加わり、利根川を超えて足利高(尊)氏の長男“千寿丸”が軍に加わると更に陣営は増えました。鎌倉幕府は新田討伐軍を急遽編成し鎌倉街道を北上させましたが、結局新田義貞の鎌倉侵攻を許す事となりました。緒戦の2回は小手指原と久米川で行われたもので、現在所沢市と東村山市に跨る地域にあたります。 幕府を実質的に束ねる北条高時は、義貞挙兵の報が出た段階では本件がどこまで深刻なものかは理解できていなかったのかもしれません。2度の敗戦の報を受け、多摩川を鎌倉防衛の死守線として弟の北条泰家に大軍を授け、分倍河原で新田軍を迎え撃ちました。この3回目の分倍河原の戦いが事実上の決戦であり、大軍を擁した泰家は当初優位に戦いを進めましたが、結局義貞に止めを刺すことが出来ずに逆転負けを喫しました。
7月3日読了時間: 4分


一字姓のドラマ ~伴さん、長さん、高さん~
日本の姓は漢字二字のものが多く、偶に一字姓が出てくると由来を調べたくなります。もっとも日本人の多くが何れかの姓に由来するとされる源平藤橘の内三つは一字姓ですし、森さん、谷さん、原さん等巷間一字姓は溢れており、それほど拘るテーマでは無いのかもしれません。 一方で、元々二字・三字の姓だったものが一字になったケースがあります。奈良時代に家持を始め公卿を輩出した大伴氏は、淳和天皇の諱(いみな、本名だが生前使う事を忌むもの)が大伴であった事からこれを忌避し、伴氏を名乗る事となりました。それから数十年後伴氏は応天門の変で失脚し、古代ヤマト王権から続く名門が零落するきっかけとなりました。国宝の「伴大納言絵詞」を見られた方は多いと思いますが、本作品は事件の300年後に後白河法皇が作成させたと考えられています。 公家としては零落しましたが、大隅の戦国大名として一時期島津氏と覇を競った肝付氏は伴氏の末裔を名乗りました。地方官として薩摩に下向しその後現地に土着したそうですが、頼朝や鎌倉幕府から地頭に任命されて土着した島津氏や伊東氏よりはかなり古い現地領主になりま
6月18日読了時間: 4分


家督は兄にお還し申す ~水戸黄門と畠山満慶~
古今東西家督相続の揉め事は数多く有りますが、長幼の序を重んじ弟から兄又は兄の子供に家督を還したのは水戸光圀と畠山満慶でした。 水戸黄門の放映が終了して久しいですね。放送開始は昭和44年だそうで40年以上も続いた長寿番組ですが、日本人の多く・・・特に当時のお父さん達は月曜の晩酌の御供でテレビを観て、印籠を出すシーンで溜飲を下げてました。週の始めは静かに勧善懲悪を楽しむのがいいと思いますが、リメイク再開を期待するのは自分だけではないでしょう。 水戸藩は徳川御三家の末弟、家康の11男頼房公が始祖で、光圀公は2代藩主となりますが次男になります。兄の頼重とは6歳違いで二人とも同じ母親(久昌院)から出生しました。兄は父頼房が堕胎を命じた為に家臣が公家の滋野井家で匿い、後年認知される事となります。 堕胎を命じた背景は、尾張・紀伊両藩を構える兄達(徳川義直、頼宣)に未だ世嗣が出来ない中で、末弟の自分が先に授かるのは宜しくないとの思慮が働いたものとされてます。六年後に生まれた光圀が生まれた際には既に尾張藩・紀伊藩には世嗣が誕生していましたが、再び頼房は堕胎を
6月12日読了時間: 4分


西山逍遥 ~ 京都 MAY,2026 ~
今回は桂川の西側を回遊しようと思い、長年行きたかった西芳寺(苔寺)を予約しました。大きな前線が近づいているとかで、晴れているうちに眺望のいい場所に行こうと探しましたが善峯寺が一番いいようです。東山では将軍塚古墳からの眺めが一番でしたが、ここからは逆方向で京都盆地を眺めることになり、正面に比叡山の稜線が連なります。 桓武天皇は平城京から平安京に遷都する間に、桂川の手前で一旦長岡京を造営しました。西山周辺にはこの長岡京遷都に際し造立された寺社も残っており、又それ以前には外来系である秦氏の植民地域でもあった事から多くの伝承・由来が錯綜してます。 西芳寺の由来は聖徳太子の別荘跡に遡ると言われています。桂川を超えた嵯峨野の入り口には秦氏の名前を採る太秦(うずまさ)があり、太子開基の広隆寺や蛇塚古墳もあり、嵯峨野から西山にかけて秦氏の支配領域だった事が想像できます。 70年代から参詣は完全予約制になっており、従来はハガキで申し込むスタイルだった為に敷居が高く訪れる機会が有りませんでした。最近WEB予約が可能になり、嬉しくなって何回来れるのか保障も無
5月22日読了時間: 7分


ヤマトの北限 秋田 ~MAY,2026~
秋田市郊外にある大森山展望台は僅か標高124mの低山の頂に有りますが、北は男鹿半島から秋田市内を一望できます。南方向には遥か雪を頂く鳥海山を臨み、大パノラマを楽しめますがそれだけ雄物川が開いた沖積平野が広いという事でしょう。 関ヶ原の戦いの後に秋田への転封を命ぜられた佐竹義宣は、京から水戸に寄らず直接新任地に向かいました。明らかな左遷で不本意だったと思いますが、湯沢の峠を越えて肥沃な土地を見て“ご機嫌が治った”事から御機嫌坂と名付けられたそうです。 日本書紀では崇神天皇が四人の皇族を将軍に任じ、東海・西海・高志(越)・丹波を征服させたとあり、この内北陸道に兵を進めたのが大彦命(おおひこのみこと)で崇神帝の伯父にあたります。以来ヤマト朝廷は奈良時代まで北への領土拡大を目指し天平五年(733年)に秋田城を築きました。 近くの古四王神社には武甕槌神(タケミカヅチ)と大彦命が祀られてます。前者は国譲りの直談判をし神武東征にも貢献した鹿島神宮の主祭神、後者は実際には新潟県北部くらいまでは来たと思われる日本海側征服のヒーローです。社伝では当社は7世紀に
5月16日読了時間: 7分


ついに四国のお遍路へ(一番~十番) 徳島 ~ APR,2026 ~
昨年同時期に親族の結婚式で徳島を訪れた折、そろそろ八十八箇所霊場に着手したいと思いました。余りにも著名な巡礼地でもあり(車で回るにしても)ハードな行程だと感じてましたので、それなりに心の準備をしつつ再訪しました。四方見(よもみ)展望台からは四国と淡路島を結ぶ大鳴門橋、振り返ると鳴門から遠く徳島の市街地が見え、名前の通り360度絶景が楽しめます。 十年以上前に坂東三十三観音霊場を一年余りかけて回りました。当時は未だ多忙な現役部長だったので、ゴルフの無い土日を利用しながら数回に分けて訪れました。“結願(けちがん)”の印を頂いた達成感も有り、那古観音から眺めた安房館山の海は格別美しく感じられました。 徳島(阿波)と館山(安房)は古代密接に繋がっていたと言われており、阿波を拠点とした忌部氏(いんべし)は黒潮に乗り房総半島に上陸し開発を進めたと考えられてます。阿波一の宮である大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)と、安房一の宮である安房神社は共通の主祭神(天太玉命 - あめのふとだまのみこと)を頂きます。忌部氏は麻布・木綿の製造に秀でていたらしく神社の名前に
4月26日読了時間: 7分


光秀は京に向かった 丹波の入り口亀岡から園部へ ~ APR,2026 ~
丹波亀山は、明治になり亀山という地名が全国で多くて紛らわしいとの理由で亀岡に変えられたそうです。山から岡に代わったくらいでたいした変更ではないかもしれませんが、丹波亀山城という響きで本能寺の変を連想してしまう戦国ファンの方には違和感は残ると思います。丹波の国は京都府と兵庫県に跨る横長の長方形で、亀岡は京の入り口にあたり京都駅から各駅停車で30分弱で着きます。 保津川下りの死亡事故が起きたのは丁度3年前になります。亀岡駅近くの渡船場から2時間くらいかけ嵐山の渡月橋近辺に向かうものですが、この急流を船で移動できるようにしたのは江戸初期に活躍した角倉了以でした。彼は人工運河の高瀬川も造り、瀬田川も整備し京を中心とした水運物流に多大な貢献をしました。因みに保津川は嵐山に入ると大堰川(おおいがわ)と呼ばれ、その後桂川となり鴨川と合流し淀川に流れこみます。 今回亀岡の訪問地を地図で確認していた際、古代由来の神社・寺院はすべて盆地を取り巻く高台に並んでいる事に気づきましたが、古代は大きな湖(丹波湖)が有ったようです。大きな盆地は南寄りの市街地を除き長閑な
4月9日読了時間: 9分
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