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頼朝ともう一つの一条家


保元の乱(1156)から承久の乱(1221)の65年間で、院政→平家→源氏→北条氏と目まぐるしく政権交代が起こりましたが、頼朝のお陰で時代の一翼を担った“摂関家でない”一条家が有りました。中御門流は、道長と明子(源高明娘)の間に出来た頼宗から始まる庶流でしたが、3代を経て受領国司階級となっていた藤原通基は、上西門院(後白河天皇姉)の乳母を妻とした事から院の近臣となり、息子通重は公卿階級である徳大寺家から妻を迎えました。通重は息子能保が生まれて2年後に亡くなり、上記祖母(上西門院一条)が育てる事になりましたが、邸宅が一条室町に有った為一条と号する事となりました。院政期は摂関家と対抗するべく、藤原北家傍流から近臣を登用するケースが多く、ここまでは珍しくない出世シナリオでした。 


能保は源義朝の娘坊門姫を娶り、一条家の運命は急に変わりました。坊門姫は4人の子供を産みましたが、跡取り(高能)の他三女はそれぞれ九条良経、西園寺公経、花山院忠経に嫁ぎ、摂関家及びそれに準ずる家と親戚関係を築き、一条家は公卿を出す家格に出世しました。










この九条良経の息子道家と西園寺公経の娘掄子の間に出来た頼経が、暗殺された実朝の跡を継ぎ鎌倉幕府4代将軍となります。即ち4代将軍頼経は、頼朝の妹坊門姫の孫同志の間に出来たひ孫という事になります。頼経の息子頼嗣は宝治合戦(1249)の後解任され、その後6代将軍は後嵯峨天皇の皇子、宗尊親王が指名されました。

 



宗尊親王は九条道家の孫近衛宰子を娶り、その子惟康親王が7代将軍になりました。その後上記西園寺公経の孫姞子と後嵯峨天皇の間に出来た後深草天皇の子久明親王が8代、その子守邦親王が9代を継ぎ鎌倉幕府滅亡を迎えました。鎌倉将軍は、頼朝の直系は3代で終わりましたが、女系で何とか9代繋がりました。 


さて九条道家と掄子は鎌倉将軍頼経の他に、息子が3人おり、それぞれ九条家の跡取りとなり、分家(一条、二条家)を興しました。又、後嵯峨天皇は後深草天皇の後に同母弟の亀山天皇を即位させ、その後一世紀半続く南北朝時代のきっかけを作りました。

 






中御門流一条家はその後も摂関家や北条氏との縁組を試みながらも鎌倉末期には公卿がいなくなり、南北朝期に入り絶家しました。坊門姫との縁組を契機に歴代鎌倉将軍に繋がり、五摂家のうち三家(九条・一条・二条)の当主にその血統は受け継がれ、更には南北朝の両皇統に繋がり今日の皇室に繋がっています。最大の後ろ盾であった頼朝の死(1199)と、承久の乱(1221)が当家の最大の難局でしたが、前者は有力親族の後ろ盾有り、後者は嫡流(頼氏)が北条時房の娘を室に迎えていた為鎌倉に逃れていた事から生き残る事が出来ました。但し、その後朝廷と幕府の連携は西園寺家が担っていく事になり存在意義が薄れていくことになりました。平安末期に急に現れ、中世の100年余り光り輝き、静かに消えていった超新星の様な家でした。

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