

制外の家“越前松平家”の光陰
家康の次男結城秀康は小牧・長久手の戦い(1584年)の後豊臣秀吉の養子となりましたが、淀君が最初の子“鶴松”を産み、小田原征伐(1590年)の後に結城晴朝の養子になりました。秀吉は家康を取り込む為に妹(朝日姫)を輿入れさせ、加えて母親(大政所)を人質に差出しましたが、嫡子となってもおかしくない秀康を養子として所望したのはバランスを取る上で必然だったと思われます。 本来の嫡子信康は、今川氏一族出身の築山殿との子でしたが織田信長の指示により既に切腹(1579年)をさせられていました。築山殿は正室として秀康の生母を側室と認めず、家康は暫く実子として認知できませんでした。不憫に思った信康が家康と密かに対面させたという逸話も有ります。一方、秀康は双子で生まれ、弟は暫く母親の実家の知立神社の神職をしていたという逸話も残ります。 小牧・長久手の戦い当時、家康には秀康、秀忠、忠吉、信吉の四人の男子が居ましたが、一番年上の次男秀康が養子に出た為、三男秀忠が徳川家嫡男となりました。秀康は九州征伐で初陣を果たし、葛西大崎一揆の鎮圧や文禄・慶長の役、会津征伐とキャ
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耶馬渓の紅葉見物と宇佐詣で ~NOV,2025~
耶馬渓は山国川の上・中流域に展開する峡谷全般を称し、100万年前に起きた大噴火による大量の火砕流堆積物(溶結凝灰岩)が浸食を受けて多様な顔を見せる景勝地となりました。今回は有名な一目八景(ひとめはっけい)を訪れましたが、無数の墓標の如く立ち並ぶ石柱や断崖の隙間が様々な色の木々で覆われています。 頼山陽は文政元年(1818年)に当地を訪れ、“耶馬渓”と名付けました。流石日本外史を全部漢文で書いた方で、如何にも山水画に出てくるような風景に中国風の名前を付けました。明治に入り父が中津藩士だった福沢諭吉は景観保全の為に、私財で競秀峰の土地を買収しました。国による“名勝”指定は風致景観の優秀な土地を保護する制度であり、大正八年に始まりましたが当地はその四年後に指定されました。 火砕流は阿蘇山の北方にある九重山の近くにあったカルデラから噴出したもので、地図で調べると噴火地点から耶馬渓まで直線で50kmくらい離れてます。この100万年前の大噴火の火山灰は大阪方面でも見つかっているそうで、相当巨大な噴火だった事が想像できます。九州は阿蘇山もそうですし、今尚活
5 日前読了時間: 5分


両国そぞろ歩き ~ NOV.2025 ~
両国には相撲を観る時にしか来たことは無いのですが、大相撲の無い平日を狙って静かな両国界隈を歩いてみました。 11月に入りNHK大河ドラマもラストスパートです。『べらぼう』の主人公蔦谷重三郎は晩年に入り、老中松平定信の失脚後の江戸がこれから描かれていきます。脚本も配役も素晴らしかったですが、とりわけ今注目しているのは葛飾北斎演ずるコメディアンのくっきーです。蔦重は喜多川歌麿を大成させただけではなく、駆け出しの頃の葛飾北斎を滝沢馬琴の本の挿絵を任せ世に出しました。 これから一か月の番組でどれだけ北斎の絡みがあるのかわかりませんが、くっきーの怪演が楽しみです。大江戸線両国駅から伸びる“北斎通り”を300mくらい歩くと、津軽藩上屋敷跡に“すみだ北斎美術館”があります。ちょうど“北斎をめぐる美人画の系譜”と称し特別企画展をしていました。“べらぼう”関連の展示も併設してますが、11月24日までという事でご興味有る方にはお薦めします。北斎は印象派にも影響を与えたと言われてますが、訪問客の8割以上は海外から来られた方々でやはり国際的な人気のようです。 ...
11月12日読了時間: 5分






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