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妻とは別れず~細川忠隆と滋野井公賢

結婚相手が家や親の思惑で為されいた時代でも、どうしても別れない夫婦が居ました。 


細川忠興は関ケ原の前夜上杉討伐に赴くにあたり、妻ガラシャに対して三成方から人質として拉致されるような事態になった場合には死を選ぶよう伝え、彼女はその通り実行しました。

一方長男忠隆の妻千代(前田利家の娘)は姉の豪姫(宇喜多秀家妻)に諭され、宇喜多屋敷に退避し生きながらえました。

忠興は激怒し、忠隆に離縁するよう申し付けますが忠隆はこれを拒否し勘当・廃嫡されます。以後忠隆は妻子と共に10年程京に住みますが、幼子達は夭折し千代は加賀に戻ります。彼は祖父の幽斎、幽斎の死後は熊本藩から援助を受けながら、文化人としてその後も死ぬまで京で暮らす事になりました。 


忠興という人は多面性のある人で、武将としても文人(茶人)としても優秀である一方、怒りに任せて度を過ぎた事をしてしまい後で後悔する事がよくありました。本能寺の変で謀反人(明智光秀)の娘となった妻ガラシャとは離縁せず、それから次男(興秋)・三男(忠利)が出来るので少なくともガラシャがキリスト教に傾倒し受洗する迄は仲の良い夫婦だった様です。どうしても棄教しない妻に冷たく当たりましたが、死後深い悲しみから彼女の意に沿うべく教会葬を依頼し参列、細川家の菩提寺に改葬しています。忠隆とは大阪の陣が終わり10年を経て和解し、八代で6万石を渡すので熊本に移るよう説得しますが、彼はこれを断りました。本心は、ガラシャもその息子も深く愛していたのだと思います。

 

細川忠隆は廃嫡後長岡休無と名乗りますが、千代と離縁後できた息子達は忠隆の隠居料を相続し、孫が一門筆頭の家老として招かれます(長岡内膳家)。時事放談でテレビで活躍された評論家の細川隆元はこの家の出身であり、細川護熙と比べて、本当は自分の家が本家なんだと話していた経緯は上述の通りです。 


承久の乱(1221)で後鳥羽上皇の指示により、北条義時追討の院宣を書いた葉室光親という公卿が居ました。彼は当初無謀な計画だとして上皇を諫めましたが止められず、最後は武田信光に捕らわれ甲斐で殺されます。この光親の娘を妻にしていたのが滋野井公賢でした。父親の実宣は嫡子の公賢を、後鳥羽院政の権威を背景に出世させようと働きかけてきましたが戦後掌を返し、光親の娘と離縁するよう迫ります。公賢はこれを拒否し怒った実宣は朝廷出仕を妨害した為、公賢は妻(と妾)を連れて逐電・出家しました。彼も又廃嫡となり弟が跡を継ぎました。

院政はそもそも絶大な権力を持つ摂関家から距離を置き対抗する性格上、それより格として1又は2ノッチ落ちる勧修寺流(葉室家)や閑院流(滋野井家)といった家柄で、優秀な人材を院の近臣として登用する傾向がありました。そうした名族の庶流にとっては登竜門として有難い仕組みでもありましたが、如何に上皇に取り入り偉くしてもらえるのか競争は激しかったと思います。父親の実宣からすれば、後鳥羽政権下で失脚した人達とは距離を置き、鎌倉幕府に阿る方向に方針転換する事は当然の事だったわけで妻は権門富有を選ぶ様強く説得しました。

公賢が急に家を出た為、嫡子は弟の公光にまわって来ましたが、滋野井家はその後幾星霜を生き延びて明治維新を迎えました。


細川隆元の様に本当の本家は…と訴える子孫はいません。

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