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制外の家“越前松平家”の光陰

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 2 日前
  • 読了時間: 5分

更新日:1 日前


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家康の次男結城秀康は小牧・長久手の戦い(1584年)の後豊臣秀吉の養子となりましたが、淀君が最初の子“鶴松”を産み、小田原征伐(1590年)の後に結城晴朝の養子になりました。秀吉は家康を取り込む為に妹(朝日姫)を輿入れさせ、加えて母親(大政所)を人質に差出しましたが、嫡子となってもおかしくない秀康を養子として所望したのはバランスを取る上で必然だったと思われます。 


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本来の嫡子信康は、今川氏一族出身の築山殿との子でしたが織田信長の指示により既に切腹(1579年)をさせられていました。築山殿は正室として秀康の生母を側室と認めず、家康は暫く実子として認知できませんでした。不憫に思った信康が家康と密かに対面させたという逸話も有ります。一方、秀康は双子で生まれ、弟は暫く母親の実家の知立神社の神職をしていたという逸話も残ります。

 





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小牧・長久手の戦い当時、家康には秀康、秀忠、忠吉、信吉の四人の男子が居ましたが、一番年上の次男秀康が養子に出た為、三男秀忠が徳川家嫡男となりました。秀康は九州征伐で初陣を果たし、葛西大崎一揆の鎮圧や文禄・慶長の役、会津征伐とキャリアを積みましたが、統率力の高い勇将との評価を得て家康との関係も良好だったようです。家康の江戸入部に際し関東の名族結城を継いだ事は、新領地を治める上でマイナスでは無いとの判断だったでしょう。 


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結城家は小山家と並ぶ藤原秀郷(俵藤太)の末裔で、始祖は結城朝光、母親が源頼朝の乳母であり頼朝からの絶大な信頼もあり結城郡の地頭に任じられ、以来四百年血統を繋いで来ました。戦国期に入り上杉謙信と北条氏との抗争に翻弄される中、当主の結城晴朝は小田原に参陣し領地を安堵されると共に、秀吉に懇願し秀康を養子に迎え入れました。宇都宮家から来ていた養子(朝勝)を実家に帰し、一族(小山家)と縁を切った上での勇気ある家名存続策でした。

 




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関ケ原の戦いの後、家康は秀康を越前北の庄68万石の太守に封じました。養父の晴朝も故地の結城を離れ越前に移住しましたが、秀康が早逝(1607年)した後、その子達が松平に復姓した事で慌てて家康に懇願し、秀康五男直基に結城家の社稷を継がせました。秀康の成人した息子五人(忠直・忠昌・直政・直基・直良)は嫡男の忠直を筆頭にそれぞれ大名となりましたが、秀忠・家光及び当時の幕閣が如何に秀忠の兄、秀康の家に配慮をしていたかがわかります。父秀康の遺領を継いだ忠直は御三家の叔父達との格差を不遇と感じ、秀忠への反抗的な態度が積み重なり改易処分となりました。本人は豊後府内藩に配流されましたが、嫡子の光長は越後高田藩26万石に封じられました。又、越前には忠直の同腹の弟忠昌が50万石で入部し、地名を福井に改めました。


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家祖の秀康が68万石領有した一方で、その子孫は江戸前期に併せて百万石を超える領土を保有しました(越後高田藩26万石、越前福井藩50万石、出雲松江藩18万6千石、播磨姫路藩15万石、越前大野藩5万石)。幕末の時点でも5家及びその支藩で100万石近い領地をキープしており、御三家・御三卿よりも家格は下でしたがその存在は最後まで制外の家でした。幕末の福井藩では田安家からの養子ですが、幕末四賢侯の一人である松平春嶽がいます。

 








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NHK大河ドラマ“べらぼう”では、11代将軍家斉の父一橋治済が将軍に執拗に子作りをけしかけ、一橋の血脈で日本を染め上げるというセリフが有りましたが、実際家斉は53人の子供を作りその内28人が成人しました。お世継ぎは一人でいいので、失脚した松平定信以降家斉の子供達の嫁ぎ先と養子の受け入れ先の確保は時の老中の重要な仕事となりました。



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越前松平家も例外ではなく、忠直・光長の末裔である津山松平家、直良の末裔の明石松平家、そして直基の末裔である結城松平家は家斉の息子を養子に取りました。又、上記松平春嶽も父親が一橋治済の実子であり、越前松平家5家のうち4家が一時的とはいえ一橋家(元をただせば吉宗であり、紀州徳川家)の血統に入れ替わらんとする事態となりました。徳川将軍家もそうでしたが男系相続を同じ血統で繋げるのは難しく、一橋家も間もなく世継ぎ不足となり、水戸徳川家から慶喜を養子に迎え入れ最後の将軍を出したのは周知の通りです。










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さて上述宗家のはずだった忠直が改易され配流となったにもかかわらず、嫡子の光長が高田藩26万石を与えられた背景は、母親が秀忠の娘(勝姫)だった事も一因です。せっかく存続した高田藩も光長の後継藩主綱賢が早逝し跡継ぎが居らず、世継騒動で家中が割れ将軍綱吉は再び当家の改易を決裁しました。20年後当家は許され、結城松平家の直基の孫宣富が光長の養子となり、美作津山藩10万石が与えられ幕末に至ります。 


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勝姫は娘の国姫を福井藩主光通に嫁がせましたが、福井藩主家では更なる悲劇が起こりました。国姫は世継ぎを残すプレッシャーが強すぎ自殺をしてしまい、光通も後を追い自死してしまいました。光通には側室との間に男子(直堅)が居ましたが、世継ぎにする事を勝姫が許さず起こった悲劇でした。その後福井藩の悲劇は収まらず、後継は末弟(昌親)が継ぎましたがその後を継いだ甥(綱昌)が発狂し、50万石あった石高は半減させられました。

 





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将軍家の兄の家という越前松平家の特殊なプライドは、過剰な徳川家の純血主義を招き、皮肉にも宗家とされる忠直・忠昌の家は縮小しました。家康は加賀前田家120万石を東西から封じ込めるべく、次男秀康を越前北ノ庄に、六男忠輝を越後高田に配置しました。将軍家の藩屏となる親族は同時に将軍家を脅かすライバルにも成り得る事から、親族の処遇は容易ではありません。室町時代の足利将軍家は将軍の兄弟は出家したケースが多かったですが、安易に還俗し現将軍の対抗馬となる事例が増えました。君臣のけじめを維持しながらも将軍のスペアを確保する制度として御三家や後の御三卿は一定機能しましたが、越前松平家の事例や忠輝、家光の弟忠長等の改易は将軍の権威を示す上で不可避だったのでしょう。因みに加賀藩主は参勤交代で、高田藩領を通過し中山道経由江戸に入ってましたが現代の北陸新幹線と同じルートです。 


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福井には朝倉氏の一乗谷、柴田勝家の北ノ庄、越前松平家の福井城と大河ドラマの舞台になりそうでならない故地満載です。昨年紫式部が父親の赴任地で付いていった越前市(旧武生市)がちょっと取り上げられましたが、新幹線も繋がりましたしそろそろ脚光浴びてもいいのではと思ってます。混まないうちに行っておきたいですね。

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