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跡取りを事故で失う~ 四条天皇とイワン


後堀河天皇は一人息子秀仁親王(四条天皇)を僅か1歳で即位させましたが、四条天皇は11歳の時に御所の廊下で滑り頭を打って亡くなられました。彼は近習・女房達に悪戯を仕掛けようとして滑石を廊下に並べて遊んでいましたが、自分が転んでしまいました。

 

承久の乱(1221)の後、鎌倉幕府の裁定で後鳥羽上皇の血統を外して選ばれた後堀河天皇の血統は急遽途絶える事になり、皇統断絶の危機を迎えます。後鳥羽天皇の二皇子(土御門天皇、順徳天皇)は、承久の乱後父と同様に配流されましたが、中でも土御門天皇は元々父と折り合いが悪く、後鳥羽上皇の挙兵を反対していたと言われてます。11日間の空位期間を経て、執権北条泰時は彼の息子邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させました。因みに、天皇の空位が発生したのは、奈良時代の光仁天皇擁立以来472年ぶりの事です。


皇統は再び後鳥羽天皇の系統に戻りますが、後嵯峨天皇は後に、2人の息子の系統が分かれ迭立する南北朝時代を引き起こす原因を作ります。少年天皇の悪戯が不安定な時代を招いたとも言えますが、皇統継承の安定や権力の一元化といった課題は、日本史だけではなく組織全般に係る普遍的なテーマですね。 




ロシア初めてのツアー(皇帝)イワン4世は、功罪が大変分かれる王様ですが、極めて苛烈な性格で『雷帝』という呼称をもらってます。彼は最初の妻アナスタシアとの間に6人の子供を儲けますが、未だ乳児の長男ドミートリ―を船の転覆事故で失いました。後継ぎ候補は次男のイワンが担う事になりましたが彼が27歳のとき、イワン四世は自ら息子を誤殺してしまいます。

妊娠していたイワンの妻の服装を咎めたイワン四世が彼女を殴り始めた際、息子のイワンはこれを止めに入りましたが、父は持っていた錫杖を怒りに任せて殴りつけてしまいました。イワン四世は嘆き悲しみますがどうしようもありませんでした。

 


結局3男のフョードルが後継者になりますが、知的障害があった彼は後継者が出来ず、ロシアは混乱期を経た後、母親アナスタシアの姻戚がロマノフ朝を起こし1917年の革命まで続きました。激情に駆られた錫杖が王朝を交替させ、新王朝は300年後国王一家が残酷に処刑されるまで続きました。


我々は子々孫々の弥栄を神社で祈りますが、運命のいたずらはどこで起こるかわかりません。せめて子供の事故だけは気をつけましょう。

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