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源義仲と斎藤実盛悲話


この話は平家物語で描かれ、歌舞伎でも脚色され演じられる有名な話ですが、何度読んでも泣けます。

関東平野の武士というと平将門が先ずは挙げられるでしょうか。中世活躍した武士の系譜を辿ると、凡そ平氏・源氏・藤原氏(将門を滅ぼした秀郷由来と、関東の国司を歴任し鎮守府将軍となった利仁由来)に収斂していきます。

斎藤実盛はこの利仁の子孫で武蔵長井荘(現在熊谷市)を拠点に活躍した武士でした。斎藤さんという名前は今多いですが、これは利仁の息子叙用が斎宮頭という官職に就いた事によるものだそうです。平安末期になると藤原さんが余りにも増えて、多くの場合各家毎に京の屋敷のある通りや官職を組み合わせて名乗る事になります。加藤さんは加賀の国衙、武藤さんは武蔵の国衙と関係が有ったのでしょう。


源義賢は義朝の弟で、関東に下り秩父重隆(平氏)の婿養子として武蔵北部を拠点とします。

利害対立有り義朝の長男義平が義賢・重隆を討ったのが大蔵合戦と呼ばれるものですが、実盛は義賢に仕えていた義理から、2歳になる遺児駒王丸を義平に分からぬ様に木曽の中原兼遠まで届けます。兼遠は駒王丸の乳母の夫で幼子を引き受けましたが、将来源氏の棟梁にもなり得る血筋から奇貨居くべしとの気持ちも有ったのかもしれません。幼児は長じて木曽義仲と名乗り、父が亡くなってから28年後兵を集めつつ北陸路を下り平家と対峙する事となります。


平治の乱で義朝を棟梁とした源氏が没落し、実盛は平家に仕える事になりましたが、頼朝の挙兵後も平家方として活躍します。義仲の西上作戦では敵方として戦い、倶利伽羅峠の戦いの大敗後、70歳を超えた実盛はここを死に場所として篠原の戦いに臨み、義仲配下手塚光盛に討ち取られました。首実検では髪が黒く、義仲は最初老人の実盛であるはずがないと思いましたが、池の水で首を洗うと白髪頭となり、年老いた恩人を討った悲しみで涙に咽んだとのこと。


義賢が襲撃された館跡は鄙びた神社(大蔵神社)になっており、実盛領内の国宝聖天堂を持つ歓喜院(熊谷市)には実盛の銅像が建てられ今日尚尊敬を集めてます。


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