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武士に転職した関白の息子 ~ 斎藤正義と鷹司信平


司馬遼太郎の小説を初めて読んだのは小学生の頃、父親が持っていた『国盗り物語』で、斎藤道三、織田信長の出世ストーリーと共に官能的な描写にしばし魅了されました。調べてみると、63年から66年にかけてサンデー毎日で連載されていたとのことで、成程朝刊での連載ではここまでの描写は難しいかなと思います。別稿で戦国大名になった一条家、西園寺家の話を書きましたが、ここでは武将や大名になったお公家さんのお話を書いてみます。

 












近衛稙家は戦国期に関白を務めましたが、13歳になった庶子を比叡山に出し出家させます。彼は武芸が好きで、斎藤道三の愛妾となっていた家臣の姉を頼り、道三の養子になり斎藤正義と名乗りました。土岐家の内紛を利用しながら“美濃を盗む”渦中にあった道三は、正義の武勇を重宝し東濃の拠点を任せました。土岐氏最後の守護頼芸を追放し美濃統一を果たした後、正義は配下の武将に酒宴で謀殺されました。近衛家出身の武将として一目置かれていた中で、道三が煙たくなり殺させたという説もあるようですが、美濃の次を考えていく上で優秀な武将だったならば惜しい話です。彼は浄音寺(可児市)を開基し、肖像が残されています。

 












(閑話休題)斎藤という姓はそもそも、10世紀初頭に鎮守府将軍として活躍した藤原利仁(北家魚名流)の息子叙用が斎宮頭(伊勢神宮に奉仕した斎宮のお世話をする役所の責任者)に任用されたのが由来になります。斎(神仏の前で心身を清める)と斉(揃って、纏めて)は意味が違うので、斎藤さんと斉藤さんは違う姓になります。

 


鷹司信平は、父親関白信房が62歳の時にできた恥かきっ子でした(死語でしょうか)が、御本家は既に甥が家督を継いでました。彼もやはり出家か養子に出るしかなかったわけですが、姉が徳川家光に嫁いでいた為これを頼り、旗本にしてもらいました。家綱の配慮で彼は紀州徳川家から妻をもらい、『鷹司松平家』は徳川家の一族として処遇され、孫の代で大名になり明治維新を迎えました。新政府は徳川家からもらった松平姓を捨てるように指示を出した為、それ以降領地の地名(吉井)を姓で名乗る事となりました。

 

武士階級の代名詞になっている清和源氏や桓武平氏も元を辿れば皇族や京在住の公家階級だったわけで、これらは国司を含む国衙役人や荘園の現地管理人として赴任し、土着していった人達でした。そもそも公家から武家へのトラバーユは偶然ではなく、常備軍やたいした警察力を持たない平安時代に於いては必然的だったのでしょう。大江広元や中原親能といった実務官僚貴族が鎌倉幕府に仕えたのも、武家政権の官僚需要をからして必然的です。近世になると関白を輩出する家ですら貧しく、庶子は養子か出家の道しかない場合の武家への転身需要は沢山有ったのでしょう。

江戸期は身分制が固まった時代でしたが、格によっては結構金銭で武士身分は買えた様です。豪農出身の渋沢栄一は徳川(一橋)慶喜に幕府再生論で自分を売り込み幕臣になりました。現代の我々は職業選択の自由が保障されてますが、日本史における転職史は面白いテーマかもしれません。そういえば斎藤道三は油売りでしたね。

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