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子だくさんの将軍と摂家当主~徳川家斉、二条治孝


徳川家斉公が子だくさんだったというのは有名な話なので知っている方は多いと思いますが、略同世代だった二条治孝も多いと知り、どっちが凄かったのか調べてみました。けして知識や教養を高めるものではございません。

 

11代将軍家斉(1773~1841)は将軍家に養子に入る際、実父(一橋治済)より子供を多く作る様に指導を受けたそうです。実際数えてみましたが、17人の奥さんから53人のお子さんの出生が確認できます。内訳は男25人、女28人でこの内、20歳を超えて生存したのは17人(男8人、女9人)でしたので成人生存率は32%になります。



一方二条治孝(1754~1826)は奥さんの数は不明ですが、お子さんは46人(男17人、女29人)で家斉には及びませんでした。但し成人生存率は59%(男8人、女19人)で、結局成人した数では家斉を大きく上回った事になります。

又、家斉は最初の子が16歳、最後の子が54歳の時に出来ましたが、ピーク時(30代後半~40代前半)で略2人/年で子供が生まれてました。治孝の場合は最初の子が22歳、最後の子が57歳の時に出来ましたが、奇しくもピークはやはり30代後半~40代前半で2人/年のペースでした。この点から、30代~40代を男盛りと呼んでいいものか私にはわかりません。

 








当時の医療水準からして夭折するケースが多いですが、経済力からすると圧倒的に将軍家が豊かであり、一流の医療サービスを受けられた将軍家の子息が多く早死した事には首を傾げてしまいます。何処かで読んだ本で、江戸期に白米ばかり食べていた将軍の多くはビタミンB1が欠乏し脚気を患い早死だったと書いてありましたが、豊かさと健康は必ずしも比例しないといった類の理屈なのかもしれません。

 






両者とも後継ぎが固まり、子弟が成長するに従い、養家や婚家先を探すのに苦労します。二条家は摂関家であり高い家格を持ちますが、治孝はお寺へ4人の息子を養子に、9人の娘をお嫁に出しました。当時公家は一般的に厳しい生活をしていたわけですが、大名や公家だけでなく、豊かなお寺がそうした対象になったと思われます。家斉の子供達は老中水野忠成があの手この手で養子先を探しました。分かりやすいのは領地を増やしたり(福井藩、明石藩、津山藩)、収量の高い領地に交換してあげる(尾張藩)ような援助策とパッケージで養子を送り込みました。


娘達は親藩・外様の大大名に嫁ぎましたが、私の郷里金沢城にある石川門は白門と呼ばれ、二十一女溶姫が加賀藩主前田斉泰に嫁ぐ際に東大の赤門とセットで建てられたものです。将軍家から嫁をもらう場合、婚家は多大な費用負担を強いられる為、比較的余裕のある大名しか受け入れられなかったでしょう(余裕の無い上杉家は必死に降嫁の要請を断りました)。

 



家斉の世代では水戸斉昭(1600-1660)も略同世代で子だくさん(21男15女)でしたが、家斉はチーズの様な乳製品、斉昭は牛乳・牛肉が好きだったようです。牛が子だくさんのキーワードかもしれません。最近亡くなられたインドのジオナさんは、奥さんが38人、子供が89人いるそうです。一夫多妻制を推すキリスト教宗派に属するらしいので、牛を食べていたに違いありません。

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