天然痘が変えた歴史~藤原四兄弟と実仁親王
日本で種痘の普及が始まったのは嘉永二年(1849年)、出島の蘭医モーニッケの接種が最初だそうでその後急速に普及しました。開明的な雄藩や、大坂の適塾がリードしましたが幕府もこれを公認し官立で種痘を始めました。佐賀藩鍋島直正侯は領民に積極的にこの摂取させる為に、先ずはわが子に接種したそうです。そもそもこのウイルスが日本に入ってきたのは6世紀であり、以来永らく周期的に多くの生命を脅かしてきました。天然痘は高熱と顔・手足に発疹が伴いますが、問題は治癒後も跡が残り痘痕(あばた)になる事から疱瘡と呼ばれてました。
奈良時代は皇位継承と政権を巡る争いが非常に多く不安定な時代でしたが、後の平安時代に繋がる“日本式平和(パックスジャパーナ?)”への助走期間だったように思います。即ち、天皇が統治者から政治の後見者へと昇華し、律令体制をベースにした官僚統治システムに移行する上で避けては通れない学びの期間でした。蔭位の制の導入や私有地制度の許容、臣籍降下の仕組み、仏教・神道の共存等、過去と現在をなるべく融合させ少しづつ馴染ませていくやり方はいかにも日本らしい微妙なバランス感覚(敢えて言うと寛容と柔軟性)であり、現代に至る日本人の知恵と言えるのかもしれません。さて天然痘ですが、天平九年(737年)の大流行では3割も人口が減ったと言われており、中世ヨーロッパのペスト並に猛威をふるいました。この時に亡くなったのが藤原不比等の4息で、左大臣の武智麻呂を筆頭に房前・宇合・麻呂もそれぞれ参議と全員議政官として公卿に列してました。
かつて左大臣の席は天武天皇の孫、高市皇子の息子である長屋王が占めてましたが8年前に政変があり一族は抹殺されてました。この政変には2つ意味があり、一つは皇位継承を確実に草壁皇子の系統が繋ぐ点、もう一つは藤原氏が政権の中心を担い政治の秩序を構築していく点にありました。長屋王は皇族(臣籍降下していない)であり、その正室は吉備内親王(父:草壁皇子、母:元明天皇)である事から、後継者に困っていた聖武天皇にとって本来皇位後継者に最も近い親族でした。せっかく出来た一粒種(基王)を失い、娘(後の孝謙天皇と井上内親王)しかいなかったにも係わらず、長屋王一族をライバルと見做し皇統のスペアと見れなかった点、疫病大流行の国難に際し平城京から幾つか遷都を試みたり大仏造営を含む巨大事業をした点で聖武天皇は為政者としてはかなりダメな方でしたが、娘の孝謙女帝含め、この二帝はその後の天皇及び皇族の政治への関与の在り方に大きな教訓を与えました。
律令体制黎明期において起きた天然痘大流行は政治の空白や混乱を招きましたが、その後天武・草壁朝の専制を通じ現実にそぐわない点が早く顕在化し、安定した平安時代に繋がる改革に結びついたと言えるでしょう。政変と無能な専制者の出現は常に不幸な出来事ですが、そうしたリスクをミニマイズすべく一定の皇族をプールしつつ(多過ぎれば臣籍降下させる)、君臣の役割を明確化・分離し権力分散を図り、政教分離も図る長岡京・平安京への移転は必然だったのでしょう。
後三条天皇は丁度摂関政治と、院政期を跨ぐ分岐点に居た天皇で藤原氏を外戚に持たない方でした(もっとも父は後朱雀天皇、母は禎子内親王なので、父方・母方の祖父は共に藤原道長になります)。彼は摂関家から嫁いだ妻との間に出来た貞仁親王(白河天皇)の後に、源基子との間に出来た実仁親王、輔仁親王に皇位を継がせようとしました。白河天皇は父の指示により、実仁親王を皇太弟として即位しましたが、実仁親王即位の際には輔仁親王を皇太子にという父(後三条天皇)の遺言を守らず、息子の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立てました。実仁親王は応徳二年(1085年)に僅か14歳で亡くなりましたが疱瘡でした。
白河天皇はあの『賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの』(平家物語)で有名な方ですが、道長の『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば』と似てますね。実仁親王が即位していたとしても白河天皇は親政を進めていたでしょう。白河天皇の実母茂子は摂関家傍流(閑院流)の娘が能信(道長息子)の養女になった方でした。閑院流の宗家は三条家を名乗りますが、明治維新の三条実美に繋がっていきます。
天然痘で亡くなった方は多いですが、後遺症で苦しんだ方では伊達政宗が有名です。片方の目が失明する原因となった様ですが、その後の母親や弟との確執や、東北制覇への原動力になったのかもしれません。50年くらい前にお墓を発掘し、政宗の骨を調べたらしいですが、片目になったのは少なくとも物理的な要因ではない事が確認されたようです。悲劇が起こったのは徳川慶喜の婚約者であった一条輝子でした。婚姻前に疱瘡に罹患し、顔に痘痕が残った為に婚姻は破棄され、一条家は代理を立てました。慶喜にとっては痘痕もえくぼとはならず、皮肉なことに輝子が罹患したのは上述日本で初めて種痘が行われた前年の事でした。
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