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長寿の家系 藤原彰子、藤原寛子と四条貞子


摂政関白になる為には、天皇の外戚になる事、即ち娘を入台させて次期天皇を産んで貰う必要がありました。一条天皇は幼年で即位(986)し藤原兼家が摂政となりましたが、彼には正室から生まれた息子が3人居り(道隆・道兼・道長)、それらが後継者候補になります。

先ずは長兄道隆が娘定子を中宮に送り込み(990)、間もなく父兼家が亡くなりその地位を引き継ぎました。定子は敦康親王を生み、このままならば道隆の中関白家が摂関家嫡流として続いていく筈でしたが、その5年後道隆と道兼が相次いで亡くなった為、道長にお鉢が廻ってきました。道長は彰子が12歳になるのを待ち一条天皇の後宮に入れ翌年中宮とし(1000)、史上初めて一帝二后体制になりましたが早晩定子は難産で亡くなります。中関白家には摂関の職は戻さないという意思が明確になる一方、その時点では未だ道隆の長男伊周(これちか)が次の後継を窺う状況でした。


事態が変わるのは、彰子が敦成親王(後一条天皇)、敦良親王(後朱雀天皇)と続けて皇子を産んだ(1008-1009)事と伊周の失脚でしたが、三親等以内のどろどろとした政治闘争は大河ドラマ『光る君へ』の見どころの一つになるでしょう。彰子はこうした道長の策略には好意的では無く、定子や敦康親王、中関白家には憐憫の情を持ち礼を尽くしていた点は唯一清涼感を感じます。彰子はひ孫の白河天皇の代に87歳で亡くなりましたが、歴史的には摂関全盛期の終焉と院政期の始まりを見届けた事になります。

 

道長の息子頼通は、娘寛子を後冷泉天皇皇后としましたが皇子は出来ず、跡を継いだ弟の教通も天皇の外戚となる事が出来なかった為、摂関家嫡流の基礎が揺らぎ始めました。寛子は92歳で亡くなりますが、皇后としては皇淳皇后(昭和天皇皇后、97歳で崩御)まで歴代最高齢だったそうです。

摂関全盛期を謳歌した道長系統の人々の長寿ぶりには驚かされますが、以下主要人物を並べてみます。

父 :兼家 61歳(長兄:道隆 42歳 次兄:道兼 34歳)

本人:道長 62歳 正室:源倫子 90歳

長男:頼通 82歳 次男:教通  79歳 長女:彰子 87歳(一条天皇皇后)

頼通女:寛子 92歳  後冷泉天皇皇后

教通女:歓子 82歳  後冷泉天皇皇后

こうしてみると、道長も生命力が強かったのでしょうが、妻の源倫子(宇多天皇曽孫)がかなり強い長寿のDNAを持っていたのではないでしょうか。摂関家の影響力は長寿力にも見出せるのかもしれません。 


ところが上には上があり、鎌倉時代を略通じて3世紀に渡り、107歳まで生きた四条貞子という女性がいました(1196-1302)。四条家は同じ藤原北家でも8世紀に枝分かれした魚名の系統になり、院政期やその後の平家全盛期を生きのびます。彼女は鎌倉時代に幕府-朝廷間の窓口となり家名を高めた西園寺実氏に嫁ぎ、娘二人は二帝(後嵯峨天皇、後深草天皇)の中宮になりますが、父親の四条隆衡は母親が平清盛の娘であり、壇ノ浦で滅んだ平家の血統の貴重な女系継承者でもありました。このケースも隆衡が83歳、弟の隆親が77歳、娘はそれぞれ67歳、72歳と安定しており、寿命というものは遺伝的要因が大きいのかなと嘆息してしまいます。

 




彰子に仕えた女房の筆頭格である紫式部、定子のそれは清少納言という事でコンビの丁々発止も楽しみですが、定子は残念ながら28歳で亡くなります。ドラマでは定子を高畑光希が演じるようですが、定子ロスになる前にしっかり観ておきましょう。

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