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江戸の公家と僧侶のハレンチ事件  猪熊事件と延命院事件


関ケ原が終わり家康は将軍宣下を受け、2年後秀忠にその職を譲り次世代の体制を明確にしますが、京都の治安維持と朝廷の監視役として名奉行板倉勝重を送り込みました。我が国は天皇の権威を下に政権が安定しますので、京都所司代の機能は六波羅探題以来関東の政府にとっては大変重要です。

公家社会は、永きに亘る戦乱と窮乏生活を経て天下泰平の時代となり、一部箍が外れていたのかもしれません。猪熊教利は四辻家で生まれましたが幼い頃から養家が変遷し、高倉→山科→猪熊と姓が変わりました。彼は光源氏か在原業平かと言われる程の美形でしたが、髪型や帯の結びめがオシャレで、猪熊様と呼ばれ評判だったようです。但し女癖は悪く、大事件を起こす前にも女官との密通で後陽成天皇の勅勘を蒙り、出奔していた前科も有りました。

猪熊事件とは女官5人と公家7人の密通・乱行事件を言いますが、彼はその首謀者として遊び仲間を募って乱交パーティを企画・運営していたようです。今なら公然わいせつ罪とかその幇助で、たいした刑罰には問われないような気がします。 


後陽成天皇は激怒し全員死罪にせよと命じた様ですが、結局幕府にその処分を委ね教利は斬首されたものの、その他多くは流刑処分となりました。徳川幕府の新体制が強化されていく中で、朝廷への処遇が気になっていた後陽成天皇としてはこの機を捉えて綱紀粛正し、極力幕府に隙を見せたくなかったのだと思います。

後陽成天皇は大阪の陣の後間もなく崩御し息子の後水尾天皇が即位しますが、朝廷は禁中並公家諸法度を受け入れ、秀忠の娘和子が皇后となり、徳川幕府体制に組み込まれていきました。

 

















日暮里にある延命院は、元々は3代将軍家光の跡取り、家綱の誕生をきっかけに建立された日蓮宗の寺で、子宝に恵まれるご利益があるとして有名でした。家光といえば若い頃から男色一筋でしたが、春日局が見つけた側室“お楽の方”でやっと女性に興味を示し、無事家綱が誕生した経緯があります。延命院は、お楽の方が帰依していた事で、将軍家の奥方や女中が泊りがけで祈願する場所となり、これが事件の温床となりました。

将軍家斉の時代、寺の住職になったのが日道と呼ばれるイケメン僧侶で、8年間で59人の大奥女中と関係を持ったようです。家斉は正室を入れて17人の妻、53人の子女を儲け“オットセイ将軍”と呼ばれる方ですから、それだけ大奥には多くの女中がいたに違いありません。

結局正義感溢れる寺社奉行脇坂安董が女スパイを送り込み証拠を握り、捕まえて死罪に処しました。

日道が住職になった1796年は、老中松平定信が罷免され寛政の改革が終わってから3年後にあたります。定信は大奥の予算を大幅に削ろうとして家斉に嫌われましたが、そうした世情も原因の一つかもしれませんね。

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