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公家と武家との親戚付き合い~近衛家と島津氏、津軽氏


日本の中世と近世は、ある側面からは公家と武家の二重政権とも言えますが、例え実態は武家政権にあったにせよ、この二重構造は持ちつ持たれつで明治維新まで続きました。朝廷がその実質的な統治機能を失ったタイミングを仮に承久の乱(1221年)とすれば、明治維新(1868年)まで650年の間、朝廷は実態の無い官位を発給し武家政権の統治権を安堵してきた事になります。昭和20年までと括ると、720年余りという見方もできます。


江戸幕府は、俸禄として朝廷に3万石、公家に7万石、計10万石を渡しました。慶長期で日本全体約2千万石だとすれば、虚構の公家政権の維持コストは全体の0.5%という事になり、幕府にとってはリーズナブルだったでしょうが公家は全般的にかなり質素な生活を強いられてました。平和な江戸時代、豊かな大名家と縁戚関係になった公家は、“お手伝い”と称する経済援助を各大名家から受けており、久世家と鍋島家、一条家と御三家等多くの事例があります。荘園制が崩壊し、徴税権を失っていく公家の生き残り戦略については、別稿で戦国大名化した事例を取り上げました。その他代々伝わるお家芸(和歌・蹴鞠・楽器等)を教えたり、戦国期を生き延びた公家は大変苦労してきたわけですが、“最も皇室に近い公家”である近衛家は一味違います。

 


島津氏は旧姓惟宗氏であり元々は渡来人系ですが、摂関期には藤原宗家の家司(特定の貴族の配下にある貴族)であると同時に、初代忠久は頼朝の御家人でもありました。別稿で島津家の“移動”について触れさせて頂きましたが、11世紀当時日本最大の荘園であった島津荘は関白頼通(道長息子)に寄進され、その後頼朝の時代になり惟宗忠久を荘園の下司(後の地頭)に任命し以後島津氏を名乗ります。同荘は近衛家に引き継がれていきますが、島津家と近衛家は800年前からのお付き合いになります。室町期に入り薩摩・大隅・日向三国の守護大名として島津は“領国化”を進めていく中で、近衛家との関係は薄れていきますが、15世紀末島津忠昌は当時の近衛家当主政家に家来を送り、ご機嫌伺いをして交流が再開しました。その後政家以降、近衛家は尚通・稙家・前久・信尹と当主が交替し、朝廷工作や外交面で活躍しながら、武家政権の天下統一のプロセスを側面から支える役割を演じました。そういう意味では、都の情報に疎くなりがちな島津家にとって、常に一級品の情報を持っていた近衛家との連携は大変有難いものであったに違いありません。 


津軽家は、南部家との独立抗争が有名で元々南部家庶流の大浦氏でしたが、先祖を変えて(!)独立しました。津軽為信は秀吉の小田原征伐に際し謁見が許され、本領安堵を得て実質その独立が担保されましたが、祖父政信が上記近衛尚通と政信姉との子であると認知(猶子)されている事を根拠として提示しました。もちろん、当主近衛前久ともしっかり連携し、莫大な金品を送り自らも前久の猶子となり、その後源氏から藤原氏になっただけではなく、家紋(ボタン)をもらい、家系図もいじりました。但し一番大きな恩恵は、やはり誰が天下を取るのか?という都の情報だったと思います。結局津軽家は、秀吉に安堵され、関ケ原では東軍につき、戊辰戦争では奥羽列藩同盟に入りませんでした。

 

島津も津軽も戦国期を経て明治維新を乗り越えてきたのは、日本の北端と南端という地理的条件が似ているが故に、より都へのアクセスを重視せざるを得ず、近衛家と一流のインテリジェンスをシェアしていた事が大きな勝因ではと思いますが如何でしょう。大きな決断の前には、十分な信頼できる情報と解析が重要ですね。

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