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甲斐源氏と武田氏の興亡 ~ 韮崎から甲府・塩山へ OCT,2026 ~

16 時間前
読了時間: 5分

世界遺産に指定されたばかりの明日香を廻ろうと奈良の宿を取ってましたが、諸事情の為中止となり、されど快晴の下じっとしてられるわけもなく甲府盆地に向かいました。今年は秋田や常陸太田など“佐竹氏”故地への訪問が続いたので、同族の武田氏故地も確認しておこうという塩梅です。盆地南端の釜無川、笛吹川合流域にある市川三郷町には源義清公館跡があり、三条実美が揮毫した『甲斐源氏旧跡碑』が立ってます。 


甲斐源氏は後三年の役で長兄の義家を援けて活躍した源(新羅三郎)義光から数えますが、彼は常陸介や甲斐守を歴任し関東に(河内)源氏の楔を打ち込みました。義光は常陸平氏との婚姻関係の構築を通じ所領を獲得し、嫡男義清は那珂郡武田郷を譲られ武田冠者を名乗り、その長男義業(よしなり)は那珂郡佐竹郷を継ぎ子孫は佐竹氏を名乗ります。義清はその後領地の境界トラブルで朝廷から譴責され甲斐国市河荘に息子達と配流されたとされ、これが甲斐源氏の始まりです(天承元年、1131年)。

 









義清と嫡男清光、そしてその子孫は盆地に散らばり土着していきましたが、常陸由来の武田の姓を引き継いだのが信義になります。信義は韮崎の武田八幡宮で元服し甲斐源氏の惣領を担いますが、このお社は平安時代初期(822年)の創建で源氏の守護神である八幡さま(応神天皇)が既にこちらで祀られていたのでしょう。入口にあるどっしりとした石鳥居は何とも言えない風格で室町期のものだそうです。 


重文指定されている本殿は信虎と信玄が建てたもので、信長の侵攻時も無事でした。

 








信義は社の後背地に白山城を築き本拠地としました。城郭地域は熊対策で背の高い電気柵で囲まれ安易に出入り出来なくなっており、山城ファンとしては頭の痛い状況です。400年余り後、信長の強い重圧を受け勝頼はここから4~5km離れた釜無川の対岸に新府城を築きました。武田は韮崎で始まり、韮崎で終焉を迎えました。 



信義は又近隣の願成寺を中興し菩提寺としました。当寺京で発注された木造阿弥陀三尊像は信長兵火を含む複数の火災に耐え、重文指定されています。

 






墓石は鎌倉期のものと推定されてますが、鎌倉初期のものとすれば死後間もなく造られた五輪塔になります。以仁王の令旨で挙兵した信義は、富士川の戦いで平維盛の軍を奇襲し追い払うなど源頼朝の幕府設立の立役者の一人でしたが、必ずしも頼朝からの信頼は得られず寧ろ警戒対象だったようです。 




甲府盆地南東エリアは中央高速沿いに甲斐国衙跡や古墳群が並び、古代を感じるエリアになります。信虎や信玄が本拠地とした躑躅ヶ崎館や武田滅亡後に造られた甲府城は盆地北部に有り、どういう経緯で政治の中心部が動いたのか興味深いです。現在中央本線は北縁に沿い、高速道路は南縁を走り釜無川に沿って諏訪へと向かい、真中を甲州街道が横切ります。高速沿いにある義光が創立した石橋八幡神社に立ち寄り、信玄が建てた本殿に詣りました。 


近所には関東最大規模の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳を含む古墳群が並び、県の考古学博物館を含め広い公園が整備されてます。四世紀後半の銚子塚古墳(全長169m)はヤマト王権の統一事業の成果であり、同時期の高崎市の浅間山古墳(全長172m)と略同規模になります。5世紀に入ると更に大きな太田天神山古墳(太田市、全長210m)や舟塚山古墳(石岡市、全長186m)が出てきますが、甲斐に東国を代表する有力首長がおりヤマト統一事業に貢献していた事が窺えます。


出土した三角縁神獣車馬鏡(さんかくぶちしんじゅうしゃばきょう)は備前車塚古墳(岡山市)のものと鋳型が同じです。甲斐の首長は吉備の首長と同格の有力者だったと想像できます。

 










武田の旧跡についてはこれまでかなりの場所を網羅し複数稿で触れてますが、今回は塩山エリアに立ち寄る事にしました。現在甲州市と呼ばれるこの町は、平成の大合併で勝沼他と一緒になりました。当地の菅田天神社は、有名な武田家家宝『御旗楯無』のうち楯無鎧(たてなしのよろい)が保管されてます。源為義から義朝に相伝されたものですが、平安時代の鎧が書籍や伝聞と共に伝えられ国宝指定されている事に感動を禁じえません。

 












何と5日後に一般公開されるとの事で機会を逃しました。国立博物館で厳重保管してもらうのがいいと思うのですが、塩山にとっては貴重な観光資源なのでしょう。

 






意外な場所で樋口一葉縁故の寺院がありました。近隣の大藤の里は一葉のご両親の実家が有った場所で、境内には文学碑が建てられてます。彼女が五千円札の肖像になったのは2004年からの20年間でした。偽造対策もあり、今後は割と早いサイクルで紙幣も変えていくようですが、忘れてはいけない偉人を財布に忍ばせる文化は早晩無くなる可能性もありますね。24歳で早逝した彼女を偲び、偶には「たけくらべ」や「にごりえ」を手に取ってみましょう。 


東京に戻る道は大月、上野原を経て高速道路で帰るのが普通ですが、塩山からは大菩薩峠の脇を走る国道411号経由青梅に抜ける道と更に北へ秩父に向かう道があります。山道は日が暮れると危険なので、標高940mにある雲峰寺に立ち寄り勝沼インターへ向かう事としました。こちらには武田勝頼が落ち延びる途上、家臣達が持ち込んだ多くの軍旗が保管されてますが寺宝館は予約制で拝観できませんでした。

 


勝頼は北条氏康から正室(桂林院)をもらってましたが、武田氏滅亡の3年前に起きた御館の乱(上杉謙信の後継者争い)で景虎(氏康男)を支援せず、氏政は勝頼との同盟を破棄していました。果たして勝頼が武蔵に敗走できた場合、氏政がどういう対応をしたかは謎ですが信長と直接国境を接する事態に鑑み、勝頼親子を匿う選択肢も有ったかもしれません。急峻な大菩薩峠は標高1897m、季節は3月下旬、本能寺の変まであと80日余りでした。

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