秋の蓼科高原と茅野 ~OCT,2026~
更新日:3 時間前

11月は野放図にゴルフを入れてしまい、紅葉をゆっくり愛でる機会が乏しい事に気づきました。未だ早過ぎるとは思いましたが、標高の高い蓼科あたりなら少し楽しめるのではと淡い期待を抱きつつ茅野に向かう事にしました。横谷観音展望台からは晴れていれば左手に南アルプスの山々、正面に御嶽山、右手に穂高を含む北アルプスの山々が並ぶそうです。少し色づいてきた足元の山々や眼下に拡がる茅野の街だけでも十分な目の保養になります。左手のなだらかな山(入笠山)の向こう側には高遠城、そして伊那・木曽路に繋がります。

中央高速に乗り山梨県境を越えるといつも新田次郎の「武田信玄」を思い出します。この本は風・林・火・山の全四巻から出来てますが、中学生の頃二日間夢中になり読破した思い出があります。信玄が侵攻した信州は中小の豪族が盆地毎に乱立してましたが、その攻略の経緯を理解するには幾つか盛り込まれた地図や城の配置を示す挿絵がとても親切でした。

御子息の数学者、藤原正彦さんの本も面白く、幾つか読ませて頂いてます。

信玄は父親の信虎を駿河に追放し武田の家督を継ぎ、翌年諏訪に侵攻しました。諏訪氏主城である上原城を攻めましたが、諏訪家の当主諏訪頼重は数日間籠城の後2kmほど北に離れた支城の桑原城に撤退し、間もなく降伏しました。この戦いでは信玄により既に調略されていた諏訪家一族の高遠頼継も侵攻に加わっており、戦う前に既に同家は内部崩壊をしていたという事でしょう。

典型的な山城で主郭の一部は神社になってますが、諏訪盆地を見下ろす好立地ですね。信玄は諏訪を武田領に併合し、郡代として宿老板垣信方を当城に配置しました。以後信長が侵攻するまでの四十年間、武田の諏訪経営の本拠地でした。

諏訪大社には上社と下社がありますが、神職を担う家は前者が諏訪氏と守矢氏、後者が金刺氏とであり、そもそも個々に独立していました。その中で諏訪氏は神職と世俗の大名を兼ねる極めて珍しい一族でしたが、江戸期以降武家大名と大祝(おおはふり)としての神職の家が分離されました。武田氏滅亡後家康の配下になり諏訪高島藩の礎を築いた頼忠は頼重の従弟にあたり、嫡男の頼水(よりみず)は関ヶ原の戦い後諏訪藩主として旧領に復帰しました。

頼水は高島藩立藩後、上原城の麓に頼岳寺(らいがくじ)を開山し、両親(頼忠と理昌院)と共に眠る廟所を置きました。

頼水の子、忠恒の代から藩主菩提寺は諏訪湖を見下ろす高台にある温泉寺に移されましたが、両寺は国史跡に指定されてます。

茅野には紅葉で有名な長圓寺が有りますがやはり早過ぎました。江戸末期に造られた百体の石仏群は感慨深く、観光用の写真で見ると当寺の紅葉は特に鮮明な赤色で、落ち葉になった銀杏の黄色と共に映えるようです。

残念だなぁと思いましたが、堂内に飾られた子安観音に救われました。紅葉を求めて高原へと向かう事とします。

蓼科高原は耕作地が結構拡がってますが恐らく多くは高原野菜なんでしょう。一部田んぼも見られます。当地は火山灰の上にあるので水はけが良すぎ、川も急流ですぐ流れていくので昔から灌漑用水の確保に苦しんでいたようです。小さな湖が多いなとの印象でしたが、実は灌漑用の池で戦前に造られたものが多いです。流石に標高1500mまで来ると、紅葉を見る事が出来ました。

御射鹿池(みしゃかいけ)もその一つですが、谷川のように流れる小川を一旦堰き止めて、下流に水が流されてます。

東山魁夷の絵のモデルだそうで見覚えがあります。超一流の画家の審美眼にはただ溜息が出ますね。

上述横谷観音展望台そばには小さなお堂が建ってました。昭和十二年に当地に来た市瀬源助(いちのせげんすけ)元陸軍中将のお声がけで造られたものだそうです。

調べてみたら昭和九年に予備役に入られた元騎兵旅団長でした。当時は第一次世界大戦で登場した戦車等が騎兵に取って代わる時代だったと思いますので、予備役に入った理由もそういう事情もあるかもしれません。世代的に秋山好古の薫陶を受けられたのではと無名の将軍閣下の像をしばし見入りました。

計算したら58歳で郷里の山中にお堂を建てよう思われたということですね。年明け63歳になる己の怠惰と不明を恥じ居るばかりです。




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