大内氏の残照 山口 ~ OCT,2026 ~

昨年末に瑠璃光寺の五重塔の修理が終わったと聞き、山口市訪問の機会を窺ってました。西ノ京と呼ばれたこの町は、かつて応仁の乱で廃墟となった京から逃げてきた公卿と文化の避難場所であり、日明貿易を中心に東アジアの交易主導権を握った大内氏の政庁が置かれました。山口市は毛利や幕末の史跡も多く大いに目移りしますが、500年近く前に滅んだ大内氏の史跡に焦点を絞り回遊することにしました。大友宗麟の弟晴英(はるひで)は母親が大内義興(大内氏15代)の娘であり、大内義長と名乗り山口に送り込まれ最後の当主となりました。彼は山口城下を見下ろす山上に詰城(いざという時に籠城する為の城)として高嶺城(こうのみねじょう)を築きましたが、毛利軍の侵攻の前に逃亡し且山城(かつやまじょう、下関市)迄逃げて自刃し大内氏は滅びました。山腹から見える山口盆地は2~3百メートル級の優しい山々に囲まれ箱庭の様です。

山口県は長門、周防の二国から構成されてますが、それぞれ国府跡は長府市、防府市に在り防府には国衙跡や1300年続く国分寺もあります。大内氏は周防の在庁官人の出自で12世紀から文献で登場します。平安時代は私領(荘園)が拡大し国衙が減少していく時代で大凡日本の国府は10~11世紀に機能不全となり、地元の在庁官人が徴税権だけを担うような仕組みに変質していきました。鎌倉期に入り承久の乱や元寇対策で多くの鎌倉御家人が九州、中国地方に地頭として配置されていく中で、珍しく地元代表で頭角を現し九州に跨る数か国の覇者となる点はユニークです。

山口盆地に繋がる山間に大内義興の菩提だった凌雲寺跡があります。彼は七ヶ国の守護を兼ね、官位としては将軍や特定の足利家一族を除き唯一三位(公卿)に上った武家でした。次代の義隆が陶晴賢の謀反で自刃し実質大内氏は滅びましたが、その後間もなくこの寺も廃寺になり僅か50年余りの時間しか存続していなかったようです。義興とその正室の宝篋印塔は野ざらしで置かれており、もののあわれを感じずにいられません。

総門があった場所に立派な石垣が積まれており、城郭的な造りだったのではと想像されます。

山口盆地の南東部は広い範囲で“大内○○”の地名が並び大内氏発祥地を連想しますが、元々は国衙の有った佐波郡多々良浜(防府市)から12世紀末に移った経緯で多々良(たたら)から大内に名乗りを変えました。盆地中央を流れる椹野川(ふしのがわ)と仁保川(にほがわ)が合流する周囲が当初の本拠地だったようで大内氏の古い菩提寺が並んでます。天台宗寺院だった仁平寺(廃寺跡)は仁平年間(1151~1154)の創立ですが、側にある日吉神社は寺の鎮守として比叡山の日吉大社から勧請されたものらしく、大内氏が本拠を当地に移す時代と符合します。

興隆寺は氏寺として重宝されてましたが、多々良姓大内氏の始祖、百済から来た“琳聖太子(りんしょうたいし)”が613年に開山したと伝えられます。一方自分達が百済王の子孫だと言い始めたのは14世紀末の大内義弘らしく、当時朝鮮国王に対し日朝貿易における優先的な地位を得たい事が背景だったようです。

近所の乗福寺(じょうふくじ)には琳聖太子の供養塔があり、大内重弘と大内弘世の墓石と並んでました。重弘は元寇で活躍した当主、弘世は南北朝で活躍した当主になります。

弘世の代以降(14~15世紀)、大内氏は拠点を現在の大内氏館に移していきました。現在館跡には龍福寺が在り、陶晴賢に追い詰められ大寧寺(長府氏)で自裁した大内義隆の供養塔があります。

義隆は義興の後継者として当初は大内氏の勢力拡大に励みましたが、尼子晴久を攻めるべく月山富田城を囲んだものの大敗し、政治力は失速していきました。毛利元就の嫡子隆元は義隆の養女を正室として迎えており(輝元の母)、大寧寺の変の二年前に当地で対面をしています。毛利はそのお陰もあり大内氏の遺産をそのまま引き継いでいくことになりましたが、当寺院も含め比較的大内氏の関係寺社が残っているのは、毛利氏の大内氏への敬意と寛容によるものかなと思われます。現在ある本堂は、明治に入り焼失したお堂の跡地に上記興隆寺のお堂を移設したものになります。室町期のもので重文指定されてます。

さて瑠璃光寺の五重塔はやはり暫し見とれてしまいました。今回の改修は檜皮葺(ひわだぶき)の張替えで三年かかったそうですが、やはり見栄えが美しいのと上層下層の大きさのバランスが程よく格好いいです。もともとこちらは大内義弘が建てた香積寺でしたが、同寺はその後毛利輝元が萩に移した為、別の場所に在った瑠璃光寺が移されてきました。皮肉な事に瑠璃光寺は謀反を起こした陶晴賢の3代前の陶弘房の菩提寺になります。

14世紀に入り山口の城下は大内氏の興隆、日明貿易による富の集積もあり城下の整備が進められ畿内の神社も幾つか勧請されやってきました。北野天神を勧請した古熊神社、今八幡宮、八坂神社も置かれ、義興はついに伊勢神宮まで呼んでしまいました(山口大神宮)。彼は10代将軍足利義稙を奉じて上洛し、管領代として11年京に滞在しましたがその間伊勢神宮を詣でる機会を得て確信を得たらしいです。当時は財政難で式年遷宮が中断していた時代だったのですが、自分なら伊勢神宮そのものに献金したと思います。戦乱の世の中で安定している山口に一時避難して頂こうという思いも有ったのかもしれません。

今回の回遊で五重塔以上に感銘を受けたのは常栄寺の雪舟庭でした。元々は大内政弘の別邸で、文明年間(1469~1486)に雪舟に作庭を依頼したものだそうです。自分には庭の良し悪しを語る知見は無いですが、戦国期に戦乱を避ける公家達に加えてこうした一流文化人を理解し招聘する力が有ったからこそ、日本の文化が中断せず継承されてきた事に深く感謝を禁じ得ません。

本堂の中庭である南溟庭(なんめいてい)の築庭経緯が書かれたメモは面白かったです。昭和四十三年に重森三玲(しげもりみれい)にご住職(安田天山)が作庭依頼をされた時、「上手に雪舟より下手に造ってくれ」と話され困惑されたようです。流石禅寺(臨済宗東福寺派)のお坊さんだなと思いましたが、重森さんも元々画家の素養も有り、雪舟庭のある寺院で作庭できる仁は彼しかいないと最大限の敬意を表されたのだろうと想像します。

平成の大合併で山口県も例外なく自治体の数が減っており、山口市は随分大きな市域になってます。仁保川を遡り旧仁保荘エリアに入ると、頼朝から地頭に任命された平子重経(ひらこしげつね)の菩提寺である源久寺があります。三浦氏の一族で、武蔵国久良岐郡平子郷(横浜市磯子区)を本拠としてましたが建久八年(1197年)当地に移り、仁保氏と名乗りその後子孫は大内氏、毛利氏に仕えました。

何と16世紀まで武蔵の所領との関係はあり、旧領内寺院への寄進をした記録があるとのこと。頼朝に転勤を命ぜられ三百年経ても父祖の地への愛着や出自の誇りといったものは、中世の武士にとってかなり重要なものだったのだろうと想像されます。

更に山間部に入り水系が変わり、佐波川(さばがわ)流域の深い山々が見えてきます。このあたりは大仏殿復興の勧進に奔走し、巨木を伐りだし奈良に送った俊乗坊重源の故地です。今回大内氏のテーマからは少々外れますが、なかなか容易に来れない場所なので訪問地の最後に選びました。途上周防国二ノ宮の出雲神社があります。祭神は国譲りの大国主命と息子の事代主命(ことしろぬしのみこと)で普通の出雲大社系の神社の様ですが、解説には太古出雲族が勢力拡大し佐波川を伝って進出した由縁が書いてあります。このまま川を下ると防府市内を経て瀬戸内海に出ます。大昔の出雲帝国は流石ですね。

平重盛による南都焼討は1180年、重源が勧進を始めたのは60歳の時である1186年で、その後9年間防府を拠点に活動を行い1195年に東大寺大仏殿落慶法要が行われました。朝廷は周防を造営料国と指定し国衙収入を復興に充てる事が出来ましたが、大内氏も現地役人として大いに貢献した事でしょう。木材供給源となった地域は徳地と呼ばれ、九条家の領地(得分の地)になった事が地名の由来だそうです。丁度平安末期は摂関家が五摂家へと分かれていく時代で、最初に出来たのが九条家と近衛家であり九条家の初代当主が兼実になります。

重源は兼実に領内木材の伐りだしの許可をもらい、その一部を使い月輪寺薬師堂を建てました。当寺出来た東大寺大仏殿は松永久秀と三好三人衆との戦いで1567年に焼失しましたが、この薬師堂は今日まで維持され県内最古の木造建築物だそうです。因みに大仏殿はその後1709年まで再建されず、142年間大仏様は雨ざらしでした。

意外な場所で九条家の旧荘園領を訪れる事が出来ました。九条家に限らず、朝廷・寺社・貴族が保有していた荘園の多くは鎌倉・室町期を経て在地武家に蚕食されていきます。九条家は特に財政が厳しく、1496年に金銭トラブルによる殺人事件まで発生しました。当主の九条政基は家司(九条家家政全般を管理する公家)の唐橋在数と財政破綻問題で意見が合わず殺してしまい、処分を受けました。兼実が大仏殿復興に協力して三百年後の話ですが、何とか九条家は戦国期を乗り切り江戸期以降家格を維持出来ました。こういうご時世で心配ですが、未だ800歳余りの御堂と田園地帯は何とか残されてます。

大内氏は李氏朝鮮との交易で大量の高麗版大蔵経(木版)を輸入しました。仏教を国教としていた高麗が1368年に李成桂のクーデターで滅び、寺院統合や寺領没収を進めた李氏朝鮮の宗教政策転換(抑仏政策)は日本への経典や仏像移転を加速させた要因にもなったでしょう。従来仏教の経典は基本的に書写で伝えられており中には不正確なものも出回っていたようですが、高麗時代に編纂された経典は学術的に良く吟味され正誤が正されたもので重宝されたようです。日本の少なくとも1500年に渡る文化の連続性や現代に残された遺産は、面々と続く皇室万世一系のおかげでもありますが、中世の一時代にその価値を理解し戦乱の世の中で文化継承を一役担った点で、大内氏は重要な役割を果たしました。最後に法光寺の石造十三重塔を訪れ、翌日のゴルフの為広島市に向かいました。重源が大般若経を書写し塔の下に埋めてあるそうです。




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