美濃街道を抜けて奥越前へ ~SEP,2026~

帰省(金沢)ついでに走ったことの無い道を走りたくなり、郡上八幡から福井に通ずる美濃街道経由大野に入りました。街道沿いに建設途上の中部縦貫道が見え、29年春には東海北陸自動車道と繋がり福井と名古屋は略直線的に結ばれます。郡上藩は美濃と越前に領地が分散し統治が大変そうなイメージを持ってましたが、標高780mの油坂峠(あぶらさかとうげ)を越えて盆地に入る道を辿りつつ藩役人の苦労に共感しました。台風一過の初秋の盆地は刈入れ前の稲穂と共に、蕎麦の白い花があちこちに咲き誇ってます。

大ケヤキを見に専福寺に来ましたが、応仁二年(1468年)から始まる当寺はこのケヤキを目印に建てられたようです。樹齢800年とのことで、建立時は既に200歳以上経過した大木だったのでしょう。

奥越前の観光スポットというと永平寺と恐竜博物館ですが、大野・勝山には他に多くの史跡が有ります。永平寺は以前訪れた事も有り今回は遠慮し、最近「天空の城」として人気のある越前大野城をてくてく登り足腰の鍛錬が出来ました。

後に秀吉により飛騨高山に封ぜられる金森長近は、越前の一向一揆対策として信長の命で大野に赴任し当城を築城しました。260m程度の山上に聳える建物は復興天守ですが、基礎を成す野面積みの石垣は美しく難攻不落の城です。城下町造りの評価も含め、続百名城に指定されています。

結城秀康は関ヶ原の戦い後、越前一国68万石を与えられました。脚本が奇抜・陳腐・史実無根で嫌々見ている「豊臣兄弟」で最近やっと登場しましたね。小牧長久手の戦い後秀吉に養子として差し出されたシーンですが、彼はその後家康の関東転封に際し結城氏の継嗣となり、実父の重要な片腕になるまで成長しました。越前国主となった7年後33歳の若さで亡くなりましたが、後継者(忠直)は秀忠を怒らせ改易・減封処分となり越前は分割されていきました。

奥越前を占める大野郡は勝山藩、大野藩として秀康の子供達が藩主となる支藩となりましたが、その後元禄期になると譜代大名の小笠原家や土井家が置かれ幕末を迎えました。上述郡上藩領を加え、主に三藩で分割されていた事がわかります。

大野は朝倉義景終焉の地です。義景は一乗谷で自刃しようとしたところを止められ、従弟の景鏡(かげあきら)は自分が領する大野の賢松寺に義景一族を一旦保護しました。しかし景鏡は結局寺を囲み義景を自裁に追い込み、母親(高徳院)や妻子を捕縛し義景の首級と共に信長に差し出し降伏しました。

賢松寺は今は無く、現在の曹源寺がその跡地と推定されてます。寛政十二年に旧朝倉家家臣が建てた五輪塔はその後近所に移され、現在義景公園の中で妻子の墓と共に佇んでます。

裏切った景鏡は大野領を安堵されましたが、間もなく越前一向一揆軍と敵対し平泉寺白山神社に籠り戦死しました。白山信仰は古代からありますが、加賀(金沢)人からすると白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)が総本宮として最も権威あるお社になります。一方越前側にある白山信仰を引き継ぐ社が平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)になります。何れも奈良時代初期に泰澄禅師が開山したものですが、平泉寺白山神社は明治維新までは神仏習合の寺社として繁栄し、明治以降は名前に平泉寺を残しながら神社として今日に至ります。どちらが上というものではないですが、江戸幕府からは白山頂上の奥宮の祭祀は平泉寺白山神社が行う事が認められ、明治に入り白山比咩神社に祭祀権が移ったとの事でそういうご本家論争の様なものは昔から有ったのかもしれません。

何が違うのか調べましたが、越前側の主祭神はイザナミに加えアマテラスと大国主命であり、加賀側はイザナミは共通してますが、その他イザナギと菊理媛神(ククリヒメ)になります。菊理媛神は日本書紀にちらっと出てくる神様ですが、イザナギとイザナミが黄泉(よみ)の国で諍いになりそれを収めるのに一役買った女神で縁結びの神様です。何故白山信仰と結びついたのか、何故平泉寺白山神社の柱にいないのかは謎ですね。

平泉寺の全盛期は14~16世紀の中世で、社領9万石、僧兵8千、6千坊を有する巨大宗教都市でした。ちょっとした大名だったわけですが、上述天正二年(1574年)越前一向一揆との抗争で全山焼失しました。近年の発掘調査では膨大な石畳や僧坊跡が見つかっており、特に南谷遺跡では6千坊の内60%が有りました。古い石畳を沢山歩かせてもらいましたがまだ未発掘地域は広いですね。

境内は広く苔に覆われており見事です。「街道をゆく」で司馬遼太郎はこれに比べれば京都の苔寺(西芳寺)のものは笑止と書きました。まぁ同感できますが、苔寺の年会費も払っている身としては微妙な心持ちです。

住宅地にある篠座神社も泰澄禅師が開いた社で、主祭神は大国主命です。泰澄は越前の生まれで奈良朝の創始から歴代天皇の信任も厚く、天皇の病気快癒や天平期に流行した疱瘡(天然痘)の収束に貢献した高僧でした。奈良時代の前後、地域に特化し布教した僧侶は泰澄の他に畿内の行基や会津の徳一、上野・下野から奥羽にかけて道忠・広智・円仁と挙げられます。仏教が国家鎮護を目的としたものに加え大衆化していく過程や、その次に来る大きな波として鎌倉新仏教が広まる過程は日本の政治史と並行して流れる精神史を読み取る重要な鍵であり、特に地方には未だ多くの痕跡が残っていて興味深いテーマの一つです。

勝山には奈良の大仏(15m)より大きい青銅の大仏(17m)と、日本で最も背の高い五重塔が置かれる清大寺があり威容を放ってます。四十年前に大阪のタクシー事業で成功した多田清さんが寄付し建立されたもので、彼は元々税金を勝山市に納める目的で宗教法人にしなかったようですが意に反して参詣者数が伸び悩みました。その後納税不能となり勝山市が管理する様になりましたが、昨今は同市のPRが漸く効いてきたらしくインバウンドを中心に参拝客が増加しているようです。多田さんは但馬大仏も寄進した篤志家で故郷に良かれと思って為された事業だと想像しますが、日本人の侘び寂びの心にはちょっと響かなかったかもしれません。2002年以来臨済宗妙心寺派に属しています。

別稿(制外の家)で家康次男結城秀康の子孫が幕末まで繁栄した概要を書きました。改易になった秀康嫡子忠直の家系は高田藩に移り、更にトラブルを重ね美作津山藩として幕末まで存続します。福井藩は忠直の弟忠昌が継ぎましたが、江戸幕府は世嗣がいない家は基本的に取り潰す方針だったので江戸前期では各大名家のスペアとして支藩が多く作られ、忠昌も庶長子の昌勝に永平寺の麓で松岡藩5万石を分与・立藩しました。想定通り昌勝の3人の子供達は嗣子に恵まれない福井藩本家の藩主となり、松岡藩は76年・2代でその使命を終え廃藩となります。

昌勝が菩提寺として建てた天龍寺に芭蕉が「おくの細道」の旅の途中で訪れたのは、未だ昌勝の治世だった元禄二年(1689年)のことでした。芭蕉が出羽象潟まで北上したのが旧暦6月16日で天龍寺に来たのが8月10日であり、日本海に沿って600kmの道程を延々と2か月弱歩いて辿り着いた事がわかります。彼は永平寺に参詣し、この後大垣まで歩いて旅路を終え、故郷の伊賀上野に戻りました。芭蕉の来訪は当地で俳句が流行るきっかけとなり、松岡の人達は芭蕉の百五十回忌に芭蕉塚をこちらで建てました。

せっかく金沢から福井に歩いてきたのに東尋坊には行かなかったようです。ちょっと迂回する気にならなかったのか、当時それほど名勝という程有名ではなかったのかは定かではありません。平泉寺白山神社の境内には東尋坊跡があり由来が書いてありましたが、平安末期にいた乱暴者の東尋坊という僧が他の僧達の恨みを買い崖に突き落とされたとのこと。旅をしていると人生で左程役に立たない蘊蓄が増えてきます。奥越前は水戸天狗党の進軍ルートもあり、別テーマで次回訪れる事としましょう。




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