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京都源氏物語探訪 2014夏

2014年7月、会社の長期休暇制度を利用し3週間余り京都に滞在しました。休暇制度はリフレッシュ休暇と呼ばれており、連続4週間まで取れる有給休暇です。滞在先は二条城の北にある町屋を選びました。時間も有る事だし極力徒歩で京の古い痕跡を確かめたいと思い歩きましたが、真夏の京都はやはり堪えました。何かテーマを決めようということで、源氏物語由来の場所をいくつか訪れましたが以下整理します。


①渉成園

光源氏のモデルとして最右翼と言われている源融(嵯峨天皇第十二皇子 822-895)の邸宅跡の一部になります。彼の邸宅は六条河原院と呼ばれ、4町(4万㎡、12千坪)の敷地にかつて赴任(陸奥按察使)した陸奥塩竃の風景を模した庭を造ったとのことで、渉成園はその名残です。江戸期以来東本願寺の別邸的位置づけだった様ですが、京都の街中にこれだけの規模と高いレベルの庭が維持されている事は驚きです。現在ある庭の作庭は石川丈山、松平家譜代の出身で大阪夏の陣に参加しており、小堀遠州とも交流が有ったようですが、双方武将であり庭園設計の嗜みもある者同志で何を語っていたのでしょうか。


②夕顔の墓

夕顔は光源氏が若き日乳母の家を訪れた時に出会った女性で、実はライバル頭中将の彼女で玉鬘という幼子が居たという序盤の話ですが、こういう物語に出てくる女性の墓を推定地に置いてくれるとは粋な計らいです。







③大学寮跡

源氏物語との関係は写真の看板を読んで頂ければわかりますが、補足すると光源氏(桐壺帝皇子)の息子夕霧は所謂2世王であり、蔭位の制により従四位下から官位がスタートする権利があるのに六位から始めたという話になります。子供にはきちんと実力を蓄えてもらいたいという親心で特権を放棄したわけですが、受領階級出身の紫式部による上級貴族達へのちょっとした当て擦りかもしれません。


④内裏跡

内裏は平安京設営以来約400年間で16度の火災に見舞われたとのことです。この安貞元年(1227)を最後に内裏の記録は亡くなり、天皇は御所に住まわれる様になります。朝廷としての内政機能が形骸化し、幕府や荘園主達(皇族を含む貴族、寺社)が実質的に全国を統治・割拠したわけですが、その時代毎に統治者に“統治権”を任ずる権威をその後800年維持している天皇制を持つこの国はやはりユニークですね。承久の乱はこの最後の内裏火災を遡る6年前に起こり、後鳥羽・順徳・土御門三上皇は配流されました。


⑤一条大路跡

光源氏のもて方は尋常でないのですが、六条御息所はプライドが高く、正妻の葵の上は見下してますし、ましてや夕顔なんぞは生霊となって呪い殺してしまいます。昔某先輩から、女の嫉妬より男の嫉妬の方が怖いぞと教えられましたが、どっちも怖いですね。昔も今も、京都のお祭りの見物場所確保は大変です。


⑥薄雲御所(慈受院)

光源氏は幼い時に母を亡くし、義母(藤壺中宮)を永らく慕い遂に間違いを犯してしまい子供(薫)まで出来てしまうわけですが、数々の遍歴の中でやはり一番愛してたのは藤壺さまだったのでしょう。15世紀室町期の寺名に物語の一部が引用されているというわけで、長くこの本が愛読されている事がわかります。


⑦小野篁・紫式部墓所

何故紫式部と小野篁のお墓が並んでるのか不思議ですが、あまりしっくりした説明は見た事がありません。一応、ゴシップまがいのふしだらな話を書いた紫式部は地獄に行くので、閻魔様の友達である小野篁にそばにいてもらい何とかしてもらおうじゃないかという事だそうです。





⑧風俗博物館(西本願寺近く)

ここは源氏物語ファン必見で、各名シーンが人形で置いてあります。












⑨大覚寺

大覚寺は元嵯峨天皇(源融父)の別宅で、源氏物語では光源氏がこの側で御堂を建てたとの設定です。


⑩清凉寺 

源融の別宅跡。











⑪野宮神社 

斎宮は天皇に代わり伊勢神宮で神に仕える神官であり皇女がなりましたが、源氏物語では六条御息所と桐壺帝の弟との間に出来た娘が選ばれ、野宮神社で出発前に身を清めている親子に元彼の光源氏が会いに行きます。斎宮を終えて、光源氏は養女に引き取り、朱雀帝(光源氏実子)の中宮に据えました。何はともあれ人間関係ややこしいです。




⑫宇治十帖と歴史ミュージアム

宇治では雨に祟られて思うようなシャッターチャンスに恵まれませんでしたが定番の平等院も源三位頼政の遺跡も堪能した上で、宇治十帖の世界にひばし浸りました。義母に懸想し子(朱雀帝)を成した光源氏は、同じ様に妻(女三宮)が柏木と密通し子供(薫)が出来てしまうという悲劇(喜劇?)に見舞われます。宇治十帖は子・孫の世代が繰り広げる愛や無常の世界です。駆け足で回りましたが、次回行く機会あれば宇治は晴れた日にゆっくり回りたいです。


どこかで読んだ本に、結婚式がきちんと挙げられるようになったのは鎌倉以降らしく、武家社会が造ったと書かれていました。とはいえこの時代が全く自由奔放だったわけでなく、

和泉式部のことを、道長も紫式部もフシダラだと非難していたわけで、一定の節度や倫理は有ったようですです。時代を超えて変わらないのは嫉妬心は人を動かすエネルギーになるという点でしょうか。



⑬盧山寺

紫式部の父親藤原為時の邸宅跡に推定されており、源氏物語執筆地候補の一つです。最後はここを見て今回の旅を終えようと決めてました。こじんまりと綺麗に整備された庭を眺めつつ、あれこれ登場人物やストーリーを考えて書いていた姿を想像し微笑ましく思いました。

庭の一角に、紫式部の一人娘、大弐三位の歌碑があります。紫式部は源氏しか小説を書いてませんが、高名な歌人の一人でもあり、娘もしっかり血筋を引き継ぎ定家は親子を百人一首で選びました。






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