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阿波の足利将軍 ~ MAY,2025 ~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 7 時間前
  • 読了時間: 4分


親族の結婚式に呼ばれ徳島に初めて来ました。阿波の国は歴史おたくの人間にとっては垂涎の地ですが、会社員時代には残念ながら出張機会は有りませんでした。ロープウェイで眉山に登り、淡路島方向を眺めると徳島城を擁する小ぶりな山と大河「吉野川」が横たわります。四国に何故こんな大きな川が流れてるのかしらと思いますが、日本列島の成り立ちと深い関係にあります。水源は名峰石鎚山の高知県側に在り、川の流れは徳島県に入り暫く北上した後、中央構造線沿いに隆起した讃岐山脈にぶつかり東行を余儀なくされ、紀淡水道に流れこんでおり対岸の紀ノ川と似ています。日本三代暴れ川の一つだそうで、坂東太郎(利根川)、筑紫次郎(筑後川)と比肩し、四国三郎と呼ばれます。


徳島城の石垣は緑色片岩で、火山岩が長期に渡る圧力と熱により変成されたものですが、これは和歌山城の石垣にも使われており、地層環境を共有していることがわかります。

 






阿波はマイナーながら邪馬台国の候補地の一つであり、古代部族忌部氏の故地で千葉県の安房との関係が深いです。紀貫之は阿波経由土佐に赴任し、源義経は阿波経由屋島の戦いに臨みました。南北朝期に守護として赴任した細川氏、戦国期に畿内の覇権を争った三好氏、秀吉や長曾我部元親の侵攻、江戸期の蜂須賀氏と当地も多くのテーマに目移りしますが時間も限られている事もあり、今回は悲劇の足利将軍家末裔の故地を訪ねました。


銀閣寺を建てた8代将軍足利義政は後継者選定に悩み、応仁の乱の原因の一つにもなりましたが、結局彼の実子(義尚)早逝後、将軍の地位は有力大名の意向により左右され傀儡化していく事になります。足利政知は義政の弟で、古河公方足利成氏を征伐する為に伊豆に送り込まれ堀越公方を呼ばれ、結局伊豆で客死しました。11代将軍義澄はこの政知の二男で彼の血統が将軍を以後継いでいきます。義澄の長男が義晴として12代将軍を継ぎ、次男義維(義冬)は阿波国平島荘(現那賀川町)に居館を建てその本拠地としました。平島館跡は、田植えを終えたばかりの水田に囲まれた狭い土地に小さな塚があり、場所を確認できました。



義維とその息子義栄は、細川氏及びその後権力を握った三好氏に担がれ将軍候補として流転し、義栄は一旦将軍宣下を受けるも京に入れず、従弟の義昭を担いだ信長に敗れ死去しました(義栄はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」で一ノ瀬颯が演じました)。以後この家は阿波に引き籠る事となり、江戸期では新たに入部した蜂須賀家の客将との扱いで僅かながら所領は安堵され、平島で従来通り住む事になりました。

 














但し蜂須賀家は豊臣時代から安堵されていた6千石の所領を殆ど取り上げたうえに、姓を平島にする様強要しました。若き日の秀吉に仕え、盗賊から出世したと言われる蜂須賀家にとって、源氏の名門の末裔が所領内で目立っては統治に不都合と考えたのでしょう。西光寺には平島家の菩提寺として、家祖の義栄・義維以降一族の墓が残されてます。




境内には目立つところに、十代将軍義植、十四代将軍義栄、そして息子の義維の墓が三基並んでました。

 






豊臣秀吉や徳川家康は、鎌倉公方末裔の足利家には下野国喜連川に領地を与え、大名としての格式を与え厚遇しましたが、足利将軍家については15代将軍義昭の世継ぎは出家させ、平島公方家は半ば無視し冷遇しました。足利家本家の血統は新政権にとって直接脅威になることや、鎌倉公方家は未だ関東エリアに於いては権威があり、利用する価値が有るとの判断が働いた事が想像されますが、大きな処遇の差は理不尽に映ります。

 









平島公方は9代義根の代、文化二年(1805年)に京に移り、姓を足利に戻しました。蜂須賀家は跡取りに恵まれず再三養子を取りましたが、55人の子供を作り“おっとせい”将軍と呼ばれた家斉から養子(斉裕)をもらい江戸末期に家格を上げました。息子は最後の藩主となった茂韶(もちあき)侯爵ですが、司馬遼太郎の「街道をゆく」では、同侯爵が明治天皇への面会時に机上の煙草を失敬したところ、天皇より「先祖は争えんのう」と揶揄われたとの逸話が書かれてます。太閤記に描かれた盗賊蜂須賀小六とは血は繋がってないので、気の毒な気がしますね。







阿波守護細川成之が中興した名刹丈六寺(曹洞宗)に立ち寄りましたが、複数の重文指定の建築物や珍しい回廊式の伽藍、大きな宝篋印塔や墓石群に圧倒されました。一方でご住職が常駐されていないらしく、境内主要部を除くエリアは荒れ果てて落ち葉や草に覆われており、折角の宝物館も日曜日に関わらず閉じられてました。人口減に苦しむ我が国にとって、こうした文化財の維持もハード・ソフト両面で懸案事項の一つでしょう。特に徳島はお遍路さんが通う八十八か所霊場のスタート地点でもあり、こうした寺院は歴史的な意味が高くても援助という点では劣後してしまうのかもしれません。


上述歴史的な観光資源は潤沢で魅力的なのに、阿波踊りしか印象に残らない観光政策は如何なものかと思いつつ徳島ラーメンを食べて帰路につきました。

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