近江八幡の三名城 ~ MAY,2025 ~
- 羽場 広樹
- 5月10日
- 読了時間: 4分

豊臣秀次が築城した八幡山城からは琵琶湖東岸方向に観音寺城と安土城が見えます。直線で安土城まで5~6km、観音寺城まで7~8kmの距離でまさに指呼の間に在ります。お城ファンにとっては天下の名城を効率よく回れるだけではなく、古代・中世・近世の時間の流れをいきいきと感じられる町でもあります。十年程前に安土城を登った事は有ったので、今回は観音寺城と八幡山城を登ることにしました。

観音寺城は観音正寺の境内経由登る事が出来ます。当寺は西国三十三所観音霊場の32番札所で聖徳太子によって開かれた古いお寺ですが、六角氏の盛衰に翻弄されました。六角定頼、義賢(承禎)は天文~永禄年間(16世紀前半~後半)に稜線伝いに城郭を拡大し、寺域が中に取り込まれる事体になり寺は一旦麓に降りました。信長の攻略により焼失しましたが、慶長期に再び山上に戻り再興されてます。但し最近の話(平成五年)ですが本堂は失火により再び焼失し、その際にご本尊や寺宝を失われたとのこと。文化財の防火対策は何処でも重要課題ですが、特にこういう山上には消防車も容易に上がれず気をつけねばなりません。

佐々木氏は宇多源氏とされてますが、宇多天皇の第八皇子敦実親王の三男雅信王が臣籍降下し源雅信を名乗ったのを祖としてます。どこかで聞いた事が有るかもしれませんが、昨年大河ドラマ『光る君へ』では益岡徹さんが演じてました。

黒木華さんが演じた娘の倫子は道長の正妻となり、摂関家の祖になります。

雅信の家はその後、公家になった家と、武家として荘園に土着した家に分かれ、後者は近江国蒲生郡佐々木荘に赴き佐々木姓を名乗りました。佐々木氏の守護神を祀る沙沙貴神社は当時荘園内に置かれ、以来今日に至ります。

保元・平治の乱では当主佐々木秀義は源義朝と行動を共にしましたが、平治の乱で敗れた後頼朝を扶け御家人となりました。その後承久の乱で一族は後鳥羽上皇方と幕府方に二手に分かれ、幕府方に付いた一族は従来の近江に加え、出雲・隠岐の守護を担い出雲源氏と呼ばれ繁栄します。頼朝の「御恩」は確かに有るものの、平安中期から始まる武家の名族として活躍した佐々木氏はプライドも高く、バサラ大名佐々木道誉(NHK「太平記」では陣内孝則が演じてました)しかり、信長の侵攻に最後まで抵抗した六角承禎・義治親子しかり、足利将軍家も天下人信長も舐めてて容易に屈しません。戦国時代山陰の覇者尼子氏は、佐々木京極氏庶流ですが今後山陰路を旅する際に足跡を辿りたいと思います。

信長は仏敵のイメージが強いですが、佐々木氏菩提寺(慈恩寺)の跡地に浄厳院を開基し慈恩寺時代の楼門をそのまま残しました。

西光寺には信長の供養塔が有りますが、本能寺の変から三年後分骨されたとの事で、あごの骨が入ってるそうです。

豊臣秀次が近江八幡43万石に封ぜられたのはその頃(天正十三年、1585年)であり、義父の秀吉が関白となり、その後継者として統治者の器量が試される事になりました。秀次が当地に居たのは清州に移るまでの僅か五年でしたが、八幡山城を築き、八幡堀を造成し、安土城下の商人を呼び寄せ近江八幡の町を整備しました。八幡山城に登るには日牟禮八幡宮の脇から登るロープウェイが便利で、市域が一望できます。

秀次はその後関白となり聚楽第に居を移しましたが、秀頼の誕生以降秀吉の寵を失い高野山で自刃するまで僅か四年の出来事でした。三条河原で妻妾子女が悉く処刑された話は有名ですが、秀次の母日秀尼(秀吉姉)は秀次一族の菩提を弔うべく出家し瑞龍寺を建てました。本寺院は江戸期以降京都に在りましたが、昭和三十六年に八幡山城本丸跡に移されました。初めて大きな所領を任され、城と町づくりを手掛けた当地に秀次の菩提寺を移したのは極めて粋な計らいだと思いました。因みに秀次の弟秀勝の娘(完子、さだこ)は関白九条幸家に嫁ぎ、子孫は現天皇家に繋がります。

近江八幡は43万石の城下町として開かれましたが、秀次の統治後、八幡山城には京極高次が2万8千石の小大名として入りました。秀次失脚の後、同城は破却され、高次は大津に移りました。秀次の遺産である八幡堀と都市機能のお陰で近江八幡は琵琶湖物流の主要中継地として引き続き栄えました。堀は高度経済成長期に埋め立てが検討されたようですが、地元の方々の熱意で清掃し撤回され、風情ある景色を見せてくれます。

「かくれ里」(白洲正子)に出てくる教林坊に立ち寄りました。小堀遠州の作庭で古墳を利用していると書かれてありましたが正子が訪ねた後無人の寺になり、一時期荒れていましたが三十年くらい前に復興されたようです。残念ながら土日しか公開していないとの事で次回の宿題とします。別途「かくれ里巡り」を企画しましょう。

観音寺城の麓には四世紀に造られた瓢箪山古墳があります。滋賀県内最大の前方後円墳で、宅地に囲まれており軽く散歩が出来ます。又、旧くから和歌で詠われてきた老蘇森(おいそのもり)を擁する奥石神社(おいそじんじゃ)もあり、古代から政治や祭祀の中心地だった事が窺えます。あれこれ立ち寄っているうちに日が暮れてきます。二千年の時間を理解するにはまだ通う必要ありますね。
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