仙道筋の要衝 二本松 ~ APR,2025 ~
- 羽場 広樹
- 4月26日
- 読了時間: 5分
更新日:5月3日

二本松は酒飲みにとっては「奥の松」と「大七」の町ですが、伊達政宗と畠山氏の攻防を大河ドラマ『独眼竜政宗』で観て心躍らせた方は多いと思います。又、江戸期には丹羽氏が二本松藩10万7千石を治め、城下町を整備しました。二本松城は会津若松城と共に福島県で二つだけ日本百名城に指定されてますが、奥州街道の拠点に相応しい威容を誇ると共に本丸までの登城路は綺麗に整備され、二本松市民の深い愛着を感じます。これまで様々な城を訪れてきましたが、本丸から見える磐梯・安達太良の山々の姿は絶景で格別でした。高村智恵子の実家は二本松にありましたが、お陰様で『智恵子抄』で詠われた“ほんとうの空”を真見ゆる事ができました。

10年程前に松尾芭蕉の足跡を辿った際に二本松城に立ち寄りましたが、当時震災の影響で本丸付近の石垣が崩れていた為、本丸まで登る事が叶いませんでした。今回補強箇所も含め、慶長期に蒲生氏郷が積んだ石垣を確認できました。元々は土盛りの城でしたが秀吉の奥州仕置の後会津92万石を領有した蒲生氏は、近江から連れてきた穴太衆に石垣を積ませました。

伊達政宗は天正十二年(1584年)、僅か17歳で家督を継ぎました。当時本能寺の変から2年が経過し、秀吉・家康による小牧・長久手の戦いの最中でした。天下の大勢が決しつつある中、政宗は奥羽の覇者を目指し近隣領主の取り込みを急ぎました。大内定綱を蘆名氏の会津に駆逐した後、二本松の畠山氏に臣従を求めました。

政宗は大内氏から奪った小浜城に入り二本松城包囲網を築く中、父の輝宗は近接する宮森城に入りました。畠山氏当主義継は、強硬な政宗の懐柔を依頼するべく宮森城を訪れました。

義継は輝宗と面談した後、隙をみてこれを拉致し二本松城に戻ろうと急ぎましたが、途上粟ノ巣で政宗が追い付きます。観念した義継は輝宗を刺殺し自刃しましたが、政宗が父輝宗の命により両者を鉄砲で撃ったとの逸話も残ります。復讐に燃える政宗は二本松城を猛攻しますが、援軍で駆け付けた佐竹・相馬軍と戦い(人取橋の戦い)一旦引き揚げた後、翌年同城は開城しました。

政宗が拠った小浜城も蒲生氏郷が石垣を築いたようで、やはり穴太衆の仕事に見えます。政宗に追われた大内定綱は二代前迄は若狭小浜にいた氏族で、そこから城の名前を付けたようです。

会津にみしらず柿という名産品があるらしいですが、元は大内定綱が会津に逃げる際に持ち込んだ柿の種と言われてます(西念寺に原木の子孫が生えてました)。今年試してみたいと思います。

東北の戦国時代は鎌倉以来の御家人や室町期に派遣された足利一族が割拠してました。頼朝は奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした後、広大な遺領を南部、蘆名(三浦氏)、伊達、相馬(千葉氏)、葛西等御家人に与えました。室町期には幕府は足利一族の斯波氏(最上、大崎氏)を送り込み、南朝からは北畠氏が移りました。戦国大名化した中には安東氏(安倍氏末裔)や田村氏(坂上田村麻呂末裔)のような古代氏族もおり、長く続いた中世封建社会の権威やしがらみが色濃く残っていた地域でした。秀吉の天下統一事業が進む中で、遅れて世に出た政宗は多少無理をしてでも覇業を急いだわけですが、家督相続から小田原征伐まで6年しか時間が無かったのは残念でした。

二本松は会津戦争の影に隠れて目立ちませんが、戊辰戦争抵抗の地であり、白虎隊と同じく少年藩士が官軍と戦った地でもあります。将軍秀忠の落胤で家光から28万石の親藩大名に引き上げられた会津藩ならば、幕府危急の際に最後まで官軍に抗した理由はありますが、何故外様大名の二本松藩が徹底抗戦をしたのか気になります。

丹羽長秀は柴田勝家と並ぶ信長麾下の筆頭格家臣であり、秀吉が羽柴を名乗る際に一字をもらった事でも有名です。長秀は越前を中心に123万石の大大名になりましたが、死後継いだ長重は秀吉に警戒され12万3千石となり90%も減封されました。更には関ケ原の戦いでは徳川側に付いたものの軍令違反で改易されましたが、暫くして秀忠が1万石の大名として復帰させました。秀忠の恐妻(お江)と長重の妻が従妹同士だった為とも言われています。その後白河で10万7千石まで加増され、次の光重の代で二本松に移りました。一度改易された後に10万石以上の大名に返り咲いたのは丹羽長重と立花宗茂の二人だけです。戊辰戦争では九州に立地する柳河藩(立花家)は早くから官軍に付き、会津まで転戦し賞典禄を得ましたが、二本松藩は最後まで戦い降伏しました。藩主長国は米沢藩上杉家から養子をもらい隠居し、藩は5万石の減封処分を受けました。

将軍綱吉の時代、佐久間勝親という信濃長沼藩1万石の小大名が改易処分を受け、二本松藩に預けられました。丹羽も佐久間も織田家の元家臣同志の間柄だった事が考慮された様です。藩主丹羽長次は、長沼藩の藩祖勝之がかつて佐々成政の養子だった経緯に鑑み、勝親に屋敷を用意した上で、家臣の佐々吉兵衛(成政末裔)に監守を命じ丁重に扱ったそうです。城郭が連なる丘陵地帯の一角に龍泉寺があり、墓碑のある丘は菜の花に囲まれてました。

二本松の名所はお城と高村智恵子のご実家です。純愛通りを歩いてみましたが、還暦過ぎた親父が一人でうろうろしてると現地の方に怒られそうです。造り酒屋だった生家は改修され、記念館が併設されてました。

今回残念ながら桜のピークを越えたタイミングでしたが、福島の山里の如何に桜の木が多いことか。〇〇の桜という名所の看板が至るところにあり、満開の季節には城や寺を訪れる時間は無いかもしれません。田村市の小沢の桜は、かつて田中麗奈が主演する『はつ恋』の撮影地になりました(長野県上伊那の設定でしたが)。小生は25年くらい前に所属する部署が変わり、日本と米国を往復する出張が急に増えた時期があります。夜行便に乗ると必ず大酒を飲んで寝る習慣でしたが、偶々観た『はつ恋』で号泣しCAさんがおしぼりを2本持ってきてくれました。当時観たこの映画と『Serendipity』はおしぼり2本必携です。
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