奥の近道 2015年5月
ゴールデンウィークは東北に行こうと思い当初何をテーマにしようか迷いました。大和朝廷の東北制覇事業にしようか、前九年・後三年にしようか、はたまた戦国の群雄割拠か、、、と考えているうちに松尾芭蕉になりました。高速道路で動くので奥の近道だなと表題を付けたものの、東北はやはり広いですね。3泊4日では、尾花沢まで行くのが精一杯でそこから帰京しました。芭蕉はその後日本海に抜けて象潟まで上り、日本海を下りて大垣に辿り着いたわけですが、次の機会はゆっくり丁寧にスケジュールを組んで、宿題の尾花沢から先もなぞってみたいと思います。
① 雲巌寺(栃木県大田原市)
由緒ある禅宗の道場なので観光客もそれほど多くは無かったですが、最近はJR東日本のCMが流れた影響で増えているようです。
当寺は黒羽藩領にあり、大関氏が江戸期を通じて当地を治めましたが、栃木県北部は中世を通じて那須氏を中心とした那須七党(大関氏もその一つ)の支配下でした。秀吉の小田原征伐に際し恭順をとったか否かでその後の明暗を分ける事になります。那須というと屋島の戦いでの与一を思い出しますが、係る平安時代から続く名族・武士団が豊臣・徳川の時代にかけて如何に生き延びたのかはしっかり調べてみたいテーマです。新緑が眩しく美しい季節でしたが、きっと秋も美しいのでしょう。
② 瑞巌寺
芭蕉は、元々白河の関と松島を見たくて、奥の細道の旅を企画したようです。ところが何故か当地で詠んだ句は歌集に載せられてないという事が謎なようです。行くとよくわかります…言葉が見つからないくらい美しいです。ただやはり3.11で押し寄せた津波の跡には絶句するのみでした。当時意識してませんでしたが、芭蕉が訪れた瑞巌寺、毛越寺、中尊寺、立石寺を巡礼する事を四寺回廊巡りと呼んでいた様で、結果として四寺訪れる事になりました。
③ 平泉
奥州藤原氏の栄華を繋いだ親子三代ですが、清衡が中尊寺、基衡が毛越寺、秀衡が無量光院を建てたそうです。歴史にifはつきものですが、義経が逃げ込まなかったなら、頼朝は奥州を攻めずに藤原氏の統治を許したか、あるいは金銀財宝・良馬の産地は他に理由をこじつけて取にいったか、多分後者でしょうね。
奥州藤原氏は、頼朝の高祖父の父(頼義)と高祖父(義家)が奥州を駆け巡った末にできた新たな血統であり、朝廷の権威は及ぶにせよ半独立王国でした。
保元・平治を経て源氏は弱体化しますが、4代後の孫(頼朝)がその財産を刈り取り、鎌倉期に入り東北が日本全体と同化していく嚆矢になったのかなと思います。斯波氏(支流は大崎・最上氏)は鎌倉中期には拠点を東北に移しましたし、北条氏は東北で多くの所領を持ち息のかかった御家人を送り込み開発は加速します。日本の西部開拓時代のようなものでしょうか。又鎌倉仏教や平泉の浄土式庭園のような極楽浄土を具現化するようなわかりやすいものを通じて、仏教が社会に浸透し文化圏を結合するのに役立ったのでしょう。もっとも、中尊寺のミイラはどう解釈していいのかよくわかりません。
天皇で初めて火葬をしたのは8世紀の持統天皇で、平安期に貴族社会全体に広まったそうですが、その後も必ずしも火葬は一般的では無かったようです。清衡は半分清原氏の血が入っているので、奥州人の慣習か死生観が何かあり、一族で特殊な埋葬法を選んだのかもしれません。おかげで、奥州藤原4代の血液型は確認され親子関係が証明されているようです。
④ 山寺(立石寺)
閑けさや 岩に染入る 蝉の声
芭蕉は尾花沢で山寺に行く事を薦められて、一旦この地に寄り道しました。晴天に恵まれた中、絶景と山道を堪能しました。石段は1015有るそうで香川の金比羅山と匹敵するくらいタフですが、新緑の木々の中登る坂道や頂上付近で味わえる絶景と古い建造物との美しいコントラストに魅了されました。
仙山線山寺駅が麓にあり、時間が有れば電車でゆっくり動くのもいいかなと思います。山形県内陸部の両側山々に囲まれた長閑な盆地の風景は、白馬と似てる気がして高速道路で動くのはもったいない気がしました。
改易された最上氏は本寺を強くサポートしていましたが、強い庇護者が居なくなった後も裾野広く信者が支えてきたとの事で、後世にしっかり残って欲しいお寺だと思います。
⑤ 芭蕉記念館(尾花沢)
芭蕉は尾花沢に10日余りいたようですが、山寺に立ち寄り日本海に抜けていきます。私は時間切れでこの後南下し米沢経由帰京する事としました。米沢で城を見て牛肉を堪能できたのが救いでした。
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