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耶馬渓の紅葉見物と宇佐詣で ~NOV,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 1 日前
  • 読了時間: 5分

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耶馬渓は山国川の上・中流域に展開する峡谷全般を称し、100万年前に起きた大噴火による大量の火砕流堆積物(溶結凝灰岩)が浸食を受けて多様な顔を見せる景勝地となりました。今回は有名な一目八景(ひとめはっけい)を訪れましたが、無数の墓標の如く立ち並ぶ石柱や断崖の隙間が様々な色の木々で覆われています。 


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頼山陽は文政元年(1818年)に当地を訪れ、“耶馬渓”と名付けました。流石日本外史を全部漢文で書いた方で、如何にも山水画に出てくるような風景に中国風の名前を付けました。明治に入り父が中津藩士だった福沢諭吉は景観保全の為に、私財で競秀峰の土地を買収しました。国による“名勝”指定は風致景観の優秀な土地を保護する制度であり、大正八年に始まりましたが当地はその四年後に指定されました。 


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火砕流は阿蘇山の北方にある九重山の近くにあったカルデラから噴出したもので、地図で調べると噴火地点から耶馬渓まで直線で50kmくらい離れてます。この100万年前の大噴火の火山灰は大阪方面でも見つかっているそうで、相当巨大な噴火だった事が想像できます。九州は阿蘇山もそうですし、今尚活動活発な喜界カルデラや桜島も含めて“カルデラおたく”にとっては非常に面白い場所ですね。

 








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拠点にした湯布院の宿から由布岳がよく見えます。2200年前が最新の噴火ですが、地下から盛り上がった安山岩の溶岩ドームと噴火の衝撃による山体崩壊により武骨な山容が形成され、未だ現役の活火山である事を感じさせます。別府方面には鶴見岳もあり、やはり火山と温泉は不可分です。

 



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車でこの辺りをうろうろするのは未だ広島に居た頃、2歳の息子を連れてサンリオのハーモニーランドに来て以来で30年振りになります。高速道路の敷設がすっかり進み、北九州方面・日田経由久留米方面・宮崎方面とそれぞれ早くアクセスが出来て驚かされます。宇佐神宮へも高速道路経由移動は容易です。同神宮は孝謙天皇が重祚した称徳天皇が、贔屓にする僧道鏡を自分の後継者にするべく御神託を和気清麻呂に確認させた『宇佐八幡宮神託事件』の舞台になります。主神は八幡様、即ち応神天皇であり石清水八幡宮は当社から勧請されました。 


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古代から伊勢神宮と共に朝廷から敬われてきた神社で、八幡様と共に宗像三女神と神功皇后が祀られており、北九州エリアの海洋民族(安曇族)の信仰や朝鮮半島との関係が感じられる構成です。本殿は国宝に指定されています。

 





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当地は日向を起点とした神武東征における最初の寄港地でもあり、古代史を探る重要地点になります。朝廷は歴代重要な節目(天皇の交代等)に勅使を当地に派遣してきましたが、奈良仏教と共に国家安寧の祈りの場となり、大きな戦乱が起こる度に祈祷が行われました。当社は神輿を初めて担いだ場所とのことで、7世紀の蝦夷や南九州の隼人の反乱鎮圧を祈ったのがきっかけでした。 


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又、神仏習合の始まりもここらしく、白鳳期に境内で建てられた弥勒寺は明治維新後の廃仏毀釈まで続きました。境内の跡は礎石と共に残されてますが、多くの仏教関係の文化財がこちらでも散逸しました。一方、一部仏像は近隣のお寺に避難する事ができたのは不幸中の幸いでした。

 


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神宮に隣接する極楽寺にはご本尊が二体移され、そのうち講堂に置かれていた弥勒仏を拝ませて頂きました。弥勒菩薩は菩薩の最高位に在り、56億7千万年後に悟りを開いて如来として衆生を救う事を約束されている仏様ですが、この仏像は既に如来様になった後の姿です。

 

















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大善寺には金堂に置かれていた薬師如来像が避難されました。

 









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弥勒寺の伽藍は平城京の薬師寺様式だったとの事で、薬師如来への信仰も篤かったものと想像されます。薬師堂の中に保管されており外から眺めて退出するつもりでしたが、ご住職の奥様が出て来られてご丁寧に拝観させて頂きました。鎌倉初期のもので、重要文化財に指定されてます。

 















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大楽寺は弥勒寺の僧侶養成機関でしたが、宇佐神宮の歴代大宮司の菩提寺だったおかげで廃仏毀釈の影響を受けませんでした。大宮司は元々は豊後地元の豪族の大神氏が担ってましたが、平安期に入り宇佐氏が引き継ぎその一族が世襲してきました。

 





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木曾義仲が都に進軍する最中、平宗盛と安徳天皇一行は都落ちを決意し一旦海路大宰府に入りましたが謀反もあり、宇佐神宮に退避しました。大宮司だった宇佐公通(きんみち)が清盛の娘婿だった事もあり、彼の邸宅は安徳天皇の行在所となりました。その後平家は福原を奪還し、再入京を目指しますが義経の登場で一の谷・屋島で敗戦し、壇ノ浦での滅亡を迎えます。 


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当寺は鎌倉幕府滅亡に際し、大宮司到津公連(いとうづきんつら)が元々駅館川河口に在った寺院(旧大楽寺)を引き継ぎ開創しました。後醍醐天皇はここを勅願寺とし、以後南朝を支援していきます。本尊の弥勒仏を含め両脇侍像、四天王立像は院政期のもので重文指定されており、堅固な建物で保管されてます。ご住職の丁寧な説明を頂きながら拝観出来ました。御本尊は定朝様式と呼ばれるふくよかなお顔立ちで宇治平等院の阿弥陀如来像を思わせる出来ですが、仏様の蓮華座が一段欠けて低くなっていることや、後背が元のものとは違うものらしく国宝指定は難しかったとのこと。成程国宝と重文の差はそういう視点で判断されるのかと合点しました。 


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豊前・豊後の国境地帯は戦国期、北からの大内氏やその後の毛利氏と、豊後府内の大友宗麟との激戦地でした。宇佐や国東半島は神域とはいえ、クリスチャンに改宗し仏教弾圧をした大友宗麟のプレッシャーが強かったですが、国東塔のような仏塔や中世の摩崖仏が多く残っており、次回散策のイメージが拡がります。東光寺には、江戸末期から明治にかけて造られた五百羅漢が並んでます。歴史の古い派手な神社仏閣も好きですが、地味な信仰遺跡にも心打たれます。

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