赤城山から前橋へ ~DEC,2025~
- 羽場 広樹

- 3 日前
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更新日:21 時間前

今年の歴史散策は高崎の古墳詣で始めましたが、近々利根川の対岸の古墳群も見て歩こうと思っているうちに年末となりました。群馬県は西から妙義、榛名、赤城の名山が並びますが、このうち榛名・赤城の間をすり抜けて流れる利根川が縦に分断し、前橋市街に入ると徐々に東進していきます。延喜式でも名神大社として高い格式が規定されている赤城神社は、赤城山頂付近から南の低地にかけて三社が縦に並び鎮座しています。先ずはカルデラ湖畔(大沼)に建つ大洞赤城神社に向かいます。大沼は標高千四百メートルにあり、夏場はリゾート地ですが流石に人影少なく気温は5度でした。

現社殿は昭和四十三年に改築移転されたもので、数百メートル離れた旧社地はそのまま残されています。寛永十九年(1642年)に大老酒井忠清(前橋藩主)が建てた社殿が老朽化し、建て替えは明治期以来の課題だったようです。

現在地(小鳥ヶ島)には室町期の多宝塔が有り、地下からは平安~室町期の鏡や経筒が見つかってます。古くから信仰の場だった事がわかりますが、美しい場所とはいえよくこの高地の山奥を切り開いたものです。

当地は国定忠治が暫く隠れていたとのこと。

周囲の植生は白樺林でしたが熊も出るらしく、いそいそと山を降りる事にしました。

山腹にある三夜野赤城神社は紅葉が見ごろでした。手水鉢は池に囲まれ、鯉が泳いでます。

三番目の二宮赤城神社まで降りてくると略平地になります。赤城神社は何れも、赤城山を祭神とする赤城神、崇神天皇の皇子で上毛野氏の祖である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)を祀ります。近くの朝倉・広瀬古墳群との関連を想像すると胸が躍ります。

この古墳群は広瀬川(旧利根川)の河岸段丘の台地沿いに造られた膨大な規模のもので、昭和十年の調査では154基有ったそうです。残念ながら戦後の前橋市の宅地開発でかなりのものは破壊されてしまいました。今回一番の注目は東日本最大(墳丘長130メートル)の前方後方墳である『八幡山古墳』であり四世紀初頭のものです。前方後方墳は四世紀に出現し同世紀中に前方後円墳に席巻され消えていく謎の墳丘で、当該古墳群の中でも唯一のものです。

ここから300m広瀬川を下った場所に前方後円墳の『天神山古墳』(墳丘長129m)がありましたが、昭和四十三年の調査後宅地造成で半分以上が破壊され原形を失ってます。上記八幡山古墳に葬られた首長の地位を引き継ぎ、ヤマト王権の配下になった人物のものと推定されてます(四世紀中頃)。銅鏡・鉄製武具等が出土し、東京国立博物館に収納されているとの事で近々上野で確認してみたいと思います。

天川二子山古墳は六世紀の前方後円墳ですが、住宅地の中の公園として残されてます。その後律令体制下では、上野国の国府は利根川西岸の総社地域に置かれました。

中世赤城山麓で勢力を張った豪族は大胡氏(おおごし)で、藤原秀郷の末裔である藤姓足利氏(源氏ではない)の支流と言われ、平治物語で名前が出てきます。長善寺には開基したとされる大胡太郎の墓石があり、貞和三年(1347年)の銘が有る事からそれ以前に開かれたと考えられます。大胡氏は戦国期に北条氏康の傘下に入り牛込(現新宿近辺)で領地をもらい、その後徳川家に仕え旗本として幕末を迎えました。

近くには大胡城があり、本丸跡からは赤城山が望めます。小田原征伐の後、家康に仕えた牧野康成が城主となりましたが牧野家はその後長岡に移り、大胡領は前橋藩に入れられ城は廃城となりました。

前橋藩15万石には江戸時代前半は酒井家が封ぜられました。酒井家は元々松平氏の分家で、15世紀後半に二つの家(雅楽頭系と左衛門尉系)に分かれました。江戸期では前者2家(前橋藩主と小浜藩主)、後者1家(庄内藩主)が10万石以上の譜代大名となり、“大老”を出せる家が3家有った事になります。前橋藩主家は家康の祖父清康が開いた龍海院をその菩提寺とし、赴任地が変わる度に引っ越しをしてきましたが、前橋から姫路への転封後はそのまま墓地を含めて当地に残されました。

各地の大名墓地は少なからず見てきたつもりですが、流石幕藩体制の柱石を担った酒井家の墓地で江戸期15代の全藩主と2代の支藩藩主の墓が整然と並んでおり立派でした。中でも注目したのは上述赤城神社の社殿を建てた四代藩主酒井忠清です。彼は将軍家綱時代の後半、大老として大きな権勢を振るいましたが綱吉が将軍になり失脚しました。

綱吉と忠清の関係が悪かった理由の一つに、家綱亡き後忠清が家綱弟の綱吉の将軍宣下を避けるべく宮家(有栖川宮幸仁親王)を次期将軍に立てる運動をしたものの、水戸の黄門様に反対され断念したという逸話があります。源実朝の暗殺後、北条義時は後鳥羽上皇に皇子を将軍として鎌倉に派遣する様請いましたが、何だか似てますね。門前に有栖川宮御祈願所の石柱を見つけて驚きました。

総社地域の国府や国分寺は正確な位置や規模は未だ調査研究途上のようですが、大正十年(1921)には巨大な白鳳寺院跡が発掘され“山王廃寺”と呼ばれてきました。五重塔の塔心礎や屋根の上に載せる大きな石製鴟尾(しび)が発見され、当寺の規模や格式が窺えます。ユネスコ『世界の記憶』に登録された上野三碑の一つ『山の上碑』(天武天皇十年、681年)には、放光寺の僧(長利)が碑を建てたと記されており、山王廃寺の名称は『放光寺』だった事がわかっています。赤城神社の祭神(豊城入彦命)~上毛野氏~ 4世紀から始まる古墳群~総社の国府や寺院といった古代上野地域の連続性が見えてきました。

関ケ原の戦いで活躍した秋元泰朝は、家康から総社で領地をもらい光巖寺を菩提寺として建てましたが、秋元家は隣接する古墳(宝塔山古墳)の上に歴代藩主の墓石を配置してきました。

小さな方墳の上を平たく削り狭い敷地に墓石が並べられており、酒井家のものと比べると狭苦しい印象です。この家は総社では1万石でしたが、その後転封を重ね老中(秋元喬知)を出した事から幕末には館林藩6万石の大名家に出世しました。総社では善政を敷き領民の支持も強く、秋元家はその後甲斐谷村→武蔵川越→出羽山形→上野館林と引っ越しましたが菩提寺とお墓はそのまま残し、地元との好関係は維持されました。

宝永六年(1709年)に起きた総社騒動は、旗本安藤信富の苛政に耐えかね総社の農民が越訴に及んだ事件です。時の老中秋元喬知にも訴え、要すれば旧主に告げ口をしたわけですが喬知の口添えのお陰で農民は勝訴したとのこと。秋元家が総社を出たのは元和八年(1622年)であり、87年の歳月を経ていましたが、旧領への愛着は不変だったようです。

近隣の総社古墳群は朝倉・広瀬古墳群と比べると後発で5世紀末からのものでしたが、国府や寺院が置かれた政治の中心地として発展した地域でした。6世紀後半に同古墳群最大の総社二子山古墳が造られた後、全国同様に7世紀に入ると前方後円墳の築造は止まり小ぶりな方墳が造られ、石室が採用されるようになりました。

前橋といえば上杉謙信も駆け抜けた前橋城、元の名は厩橋城ですが大きなテーマで面白い話も多いので、別の機会で触れさせてくださいませ。





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