太田道灌の町 越生(おごせ) ~ DEC,2025 ~
- 羽場 広樹
- 1 日前
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更新日:10 時間前

太田氏は以仁王と共に平家に対して挙兵した源頼政の末裔(摂津源氏)で、丹波(現京都府亀岡市)に拠点を持ち太田を称しました。その後相模に移り、父の太田資清(道真)の代で扇谷上杉氏の家宰(筆頭家老)として手腕を振るうようになります。扇谷上杉家は関東管領を輩出した山内上杉家の支流で、相模守護に任じられていました。資清(道真)と資長(道灌)は相模に加えて広大かつ肥沃な武蔵全域を扇谷上杉家の傘下に入れ、関東の戦国時代前半における三極(越後・上野を拠点とした山内上杉家、古河公方、そして扇谷上杉家)状態を作りだしました。

龍穏寺には親子(道真・道灌)仲良くお墓が並んでます。太田道灌をNHKの大河ドラマに呼ぼうという組織もあるようで、所々に幟が立ってます。戦国と幕末を扱わないと大河ドラマは盛り上がらないとのジンクスは有るようですが、中世もかなり面白いので是非応援したいです。

一般的には戦国時代は『応仁の乱』(応仁元年/1467年)をもって始まるとされますが、関東では『享徳の乱』(享徳三年/1454年)をもって始まると考えられています。鎌倉幕府は文字通り鎌倉に政府を構えましたが、室町幕府は京で幕府を開いたので独立性の高い武士団を擁する関八州の統治をどうするかは当初から課題でした。足利尊氏は正室赤橋登子との間に出来た長男義詮を次代将軍とし、観応の擾乱の後に鎌倉府を置き次男基氏を鎌倉公方として派遣しました。そして公方を補佐する関東管領職を尊氏の母方の実家である上杉家に世襲させます。任免権は将軍に在るので、実質鎌倉公方の監視役として機能することになります。

鎌倉公方は代を経るに従い将軍家からの独立性向が強くなり、終に4代鎌倉公方持氏は6代将軍義教の征討を受け自害(永享の乱)しました。生き延びた持氏の子成氏は何とか5代鎌倉公方となりましたが、上杉への反感は強く、時の関東管領上杉憲忠を誅殺した事で享徳の乱が始まりました。この過程で8代将軍義政の弟政知は次期鎌倉公方として指名されたものの伊豆で足止めされ、堀越公方として現地で生涯を終えました。成氏は古河に御所を移し古河公方として上杉方と対峙することになり、関東は二分されました。

道灌は鎌倉公方vs関東管領の構図の中で、主家の扇谷上杉家の勢力を伸ばし江戸・岩付(岩槻)・川越の三城を構えました。どこかで見たような絵ですが、半世紀経て後北条氏が小田原城を拠点に勢力を北に拡げていったものと同じです。

享徳の乱が終ると両上杉家(山内・扇谷)間の対立が顕在化していきますが、道灌の名声に嫉妬し猜疑心が収まらない上杉定正は、糟屋館(現伊勢原市)に道灌を招き暗殺しました。道灌は『当方滅亡』と叫んだようですが、その後扇谷上杉家は多くの家臣が離脱し衰えていきます。定正は伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻の手引きをしたと言われてますが間もなく没し、北条氏は道灌が築いた領地を早雲・氏綱・氏康の三代で席巻していきました。

道灌は暗殺される一月前に父道真が隠棲していた館(自得軒)を詩人の万里集九と訪れていたようです。道真は道灌の訃報を聞き、館内に建康寺を建てました。道灌が54歳で亡くなった時、父の道真は75歳でしたがさぞかし無念だったでしょう。道真はその二年後に亡くなりました。

太田氏は道灌の5代前の資国の代に丹波から相模に移ったとされており、室町初期の南北朝騒乱の時代だったと想像されます。武蔵には平安時代より“武蔵七党”と呼ばれる同族的武士団が勢力を保ち、これらの支持無しでは統治が難しかったわけですが、中でも児玉党は最大勢力だったようです。最勝寺は頼朝が児玉雲太夫に領地を与え開基したとのこと。

境内の片隅に、室町・戦国期に活躍した医聖“田代三喜”の顕彰碑が建ってました。織田信長の診察もした曲直瀬道三の師匠だそうです。

越生氏は上記児玉党の氏族ですが、そこから分かれた黒岩氏の館跡が五大尊(五大明王)のお堂とつつじ公園として残ってます。関東武士団にとって英雄は平将門や源頼朝であり、外から来た太田氏が広い関東平野に割拠した国人たちを束ねていくのは大変な事 だったと思います。

五大尊は平安時代の様式らしいですが、近隣の如意輪観音像は胎内に応保二年(1162年)と墨書されてます。平安期には既に一級の仏像と仏堂を建てる支配者層がいたということでしょう。

正法寺は鎌倉時代創建の禅寺で明治十七年の火災で焼失してしまいましたが、山門だけは無事でした。江戸城無血開城の立役者である山岡鉄舟揮毫の扁額を拝む事ができます。

江戸城開城は旧暦慶応四年(1868年)四月十一日でしたが、その一か月半後の飯能戦争に彰義隊指揮官で参加した渋沢平九郎は敗走後自決しました。龍穏寺末寺の全洞院には胴体が葬られ墓がありますが、明治になり渋沢栄一が谷中に改葬したとの事です。栄一は尾高家の千代と結婚しましたが、千代の弟であり従弟の平九郎を養子に迎えていました。元々栄一を含め渋沢・尾高家の親族は尊王攘夷に燃えていたわけですが、栄一は慶喜が将軍になると幕臣となり、徳川昭武の欧州渡航に随行し見聞を広め考え方が変わります。大政奉還を期に帰途に就きましたが、戊辰戦争には間に合いませんでした。

艶福家で何人子供がいるのかわからない渋沢栄一ですが、明治を前に亡くなった平九郎の死はとても残念だったようで度々供養を行いました。写真で見ると男前で立派な偉丈夫ですね。

道灌にまつわる“山吹の里”伝説の故地として小さな公園(史跡山吹の里)が有りますが、候補地は都内にも幾つかあるそうで伝説の域を出ません。鷹狩りからの帰途上、雨が降り出したので民家で蓑を借りようと立ち寄ったら、娘が歌を詠んで断ったという故事です。歌は醍醐天皇皇子、兼明親王が詠んだ“七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(蓑)ひとつだに なきぞかなしき”ですが、歌の素養が無いまま聞くと何の事かわかりませんね。そもそも山吹はどういう花だったかと考えるようでは論外なんでしょう。

越生は梅林で有名で、春には上述五大尊のつつじや山吹も綺麗なようです。歌は詠めなくても、せめて花を愛でつつ老境を迎えたいものです。

