熊谷の旧跡をゆく~幡羅郡衙跡と宮塚古墳 FEB,2024
かつて武蔵国幡羅(はたら)郡と呼ばれていた郡域は、現在深谷市と熊谷市から構成されています。それにしても日本は情緒ある地名をこれまでかなり捨ててきました。私は明治維新の功罪のうち、罪の最たるものは廃仏棄釈と廃藩置県や市制施行に伴う、旧国・郡名等古い地名の喪失だと思います。近年の“大合併”ブームではそれが更に加速しており、各地にキラキラネームが出現してますが、まさに埼玉県には滑稽な例があります。“さいたま”は元々埼玉県の北東辺を占める郡名であり、それを同郡に属さない浦和と大宮が市名として名乗ってます(旧岩槻市のみが埼玉郡)。
8世紀初頭平城京に都を移した朝廷は、各国の郡名に“二字”で出来た“縁起のいい”名前を付ける様に指示を出しました。幡羅は原(はら)と呼ばれていたものを、改名したものだそうです。埼玉県も北部まで来ると、広大な関東平野と大河(荒川)による扇状地が拡がり、古代や中世の風景を感じられる場所は多いです。
今回は7~11世紀にかけて存在した幡羅郡の役所(郡衙)跡や西別府廃寺跡を見て回りました。当地はつい20年余り前に発見された遺跡で、数年前に発掘され現在埋め戻されて一面農地になっています。全国でもこれだけ完璧に郡衙やそれに付随したお寺の跡が残っているのは珍しいようです。発掘された遺物の一部は熊谷市立江南文化財センターで展示されており、軒丸瓦などは奈良の博物館で見られるものと変わりません。
郡衙跡の一角に小さな神社(湯殿神社)があり、広い農地の先に富士山が見えます。当郡は武蔵国の北辺に在るので、1400年前の役人は国衙(現東京都府中市)まで70-80kmの道程を右手前方に富士山を見ながら通ったのでしょう。富士山はこの時代よりやや下った貞観期(864年)に大噴火し、その後宝永の大噴火(1707年)を経て今日の形になってます。当時はもう少し低くて、違う形をしていたかもしれません。荒川の伏流水が古代から湧き出ていたらしく、現在も沼があちこちにあります。天然の灌漑池が点在している事から、昔から耕作地として発達していたと思われますが、荒川、利根川が平行する沃野で有力な部族・豪族が輩出されたと想像します。そういえば、足利氏や新田氏を育てた荘園は近所です。
関東平野には古墳が数多くありますが、近所に宮塚古墳というユニークな古墳があるので行ってみました。何がユニークかというと、上円下方墳という形(下段が方墳で上段が円墳の形状)で全国的にも珍しいものです。7世紀後半(古墳時代最終期)のものですが、それほど大きくはないものの新幹線高架の側で農地の真ん中で佇んでました。大和朝廷の地方行政に組み込まれていく過程で、豪族がその統治の証で造ったものでしょうか。日本書紀によれば、朝廷は646年に薄葬令を出し古墳製造を禁止しましたが、暫く続いた様ですね。
桓武平氏が関東平野に土着し平将門が活躍した9~10世紀、清和源氏が進出した11世紀を経て郡衙とお寺はその機能を喪失していったようです。その後『のぼうの城』で脚光を浴びた成田氏が拠点を構えましたが、ここから6-7km東には忍城とさきたま古墳群が並んでます。この辺りは古代と中世・近世の交差点とも言えるでしょう。
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