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西伯旅記@米子 ~OCT,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 6 日前
  • 読了時間: 6分

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大山は大凡2万年前に噴火をして以来静かで休火山のカテゴリーに入ってます。鳥取県西部に来ると何処からでも拝める名峰ですが、山体は噴火による崩壊や地下からの溶岩ドームにより複雑な形をしており、見る角度で全く異なる姿を見せてくれます。桝水高原から見上げると双子の山のように見えます。


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米子城の頂きからは広い裾野を従える堂々としたコニーデ火山のようで、米子の人達は日々この姿を仰いでいます。

 







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ゴルフ場では完全に富士山に見えました。富士山麓のゴルフ場もそうですが、芝目がきつくグリーンの傾斜はわかりづらく、ボールは意図せざるスピードと方向で転がっていきます。前日大神山神社と大山寺にお詣りしましたが、信心が足りなかったのかもしれません。

 





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鳥取県の西部は伯耆の国であり、その中心は広く大山の山域で覆われてます。奈良時代に編まれた出雲国風土記には国引き神話が載せられており、大山と島根県の三瓶山から沖合の細長い島を引っ張り引き寄せたのが島根半島だそうです。弓ヶ浜はその時に引っ張った綱の名残りらしいですが、この有名な砂嘴は強い沿岸流によってもたらされたもので風土記が書かれた時代は未だ島で本土とは繋がっていませんでした。


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日本海に突き出た大山の山域を降りた地琴浦は小さな漁港で、ここに700年前隠岐に流された後醍醐天皇が脱出後漂着しました。島から当地までは80km程の距離があり、リスクの高い逃避行だったに違いありません。地図を見ると、何となく島根半島を目指しつつ海流に乗ってここに着いたのかなと想像できます。対馬暖流は時速1~3ノット(2~5km/時)くらいで東上し流れてます。 



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現地の支配者は名和長年でした。南朝の忠臣は“三木一草(さんぼくいっそう)”で呼ばれますがそのうちの一人です。それぞれ苗字の訓読みで結城親光(ユウキチカミツ)、楠木正成(クスノキマサシゲ)、千種忠顕(チクサタダアキ)からキとクサが読めるのが理由ですが、名和の場合は帝より伯耆(ホウキ)守に任じられたことが理由でキの一員として数えられました。 


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明治に入り南朝系遺臣の名誉復活が盛んになりましたが、名和神社は江戸初期に地元の有志が祠を建てたのがきっかけで旧名和氏邸宅跡に建てられ、その後鳥取藩主池田光仲公がその近所に社殿を造営しました。名和長年とその一族が祀られて居り、社殿から参道に向けて見える海の先に隠岐の島が在ります。 




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近所の長鋼寺は名和氏の菩提寺として開かれ、裏山には名和一族の墓石が並んでます。名和氏は南朝が不利な状況となり長年の孫の世代で九州に渡り、戦国期に至るまで肥後で割拠しました。江戸時代に入り柳河藩立花氏の家臣となり、明治を迎えると“南朝功臣の末裔”との理由で名和神社の神官となり男爵位を与えられました。



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出雲を中心とした山陰地域は神話の故郷であり古代から開けた地域でしたので、縄文・弥生・古墳の遺跡が豊富でかなり目移りします。対馬海流に乗り半島から容易に文物を運べた地理的環境に加え、たたら製鉄発祥の地だった事、タニハ(丹波)や吉備、ヤマト政権との交流や緊張感といった政治的ま刺激も有り、大きな勢力圏を造ったものと思われます。伯耆の国府が有った倉吉まで足を運べませんでしたが、白鳳・奈良時代に造られた寺院跡を訪ねました。琴浦の斎尾廃寺は八橋郡衙址に隣接しており、山陰地方で唯一特別史跡に指定されてます。法隆寺伽藍式配置であり、広大な遺構に圧倒されます。 


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米子市(旧淀江町)にも上淀廃寺有り、近所の向山古墳群と共に一体整備されてます。ヤマト王権が律令体制に移行する過程で、京から国司は派遣される一方で、地方豪族は国造(くにのみやつこ)或いは郡司として地方統治システムの中に取り込まれました。古墳の代わりに大寺院が、統治者の権威として整備されたていった側面もあったでしょう。



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向山古墳群には美保関や弓ヶ浜を見晴らす丘陵に17基の古墳が並んでます。岩屋古墳は全長52mのこじんまりとした前方後円墳ですが、戦前に箱式石棺・鉄刀・馬具・円筒埴輪・形象埴輪等が発掘されており6世紀後半のものと推定されています。隣の出雲には40年前に300本以上の銅剣が発見された荒神谷や、30年前に39個の銅鐸が見つかった加茂岩倉とスーパー遺跡が並んでおり規模感やロマンは比較になりませんが、こうした古墳、国衙、古代寺院が隣接する遺跡には現地統治者の連続性が感じられてこれはこれで興味深いです。 


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米子から山間部を南に降りると日野町に入ります。今回旅の途中で見ておきかったテーマの一つは長谷部信連の足跡でした。彼は加賀八家(加賀藩重臣)の一つ、長(ちょう)家の家祖にあたり、子孫は能登国穴水の領主として鎌倉から江戸時代まで存続しました。加賀藩は江戸期最大の石高を誇った大名で1万石以上の家老が12家有り、その中でも長家は2番目の3万3千石の領地をもらっていた為明治維新後は男爵が授爵されました。

 








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長谷部家は京で滝口武士をしていた家でしたが、信連は以仁王の挙兵(1180年)に参加し捕らわれました。本来なら殺されるところを平清盛に人柄を気にいられ日野への流刑となり、邸宅跡には畑の中ですが彰徳碑が建てられてます。彼は源頼朝に気にいられ、その後能登国大屋荘の地頭として動きましたので当地にいたのは6年程度となります。



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長楽寺は信連が再興した寺で、幾多の戦乱と火事を乗り越え3体の平安仏が重文指定されてます。信連は短い期間ながら日野の開発を進め、京文化を取り込んだ優れた領主だったようです。

 





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近所には妙に観光客が出入りする神社が有りました。金持(かもち)の金は金(きん)を意味せず、良質な鋼を作る事ができる砂鉄が取れた事が名前の由来らしいです。

 


















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当地に本拠を置く金持氏(かもちし)も後醍醐天皇の挙兵に参加し、鎌倉幕府軍との最初の戦い(船上山)で名和長年と共に戦い後醍醐軍を勝利に導きました。







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大山回遊のメインイベントは、大山寺と大神山神社(奥宮)になります。明治維新までは神仏習合で一つの寺社でしたが山腹の駐車場近辺で、入口が二手に分かれてます。

 






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大神山神社(奥宮)への階段は形状の異なる石を整然と敷き詰めた石畳が続き、深い木々と木漏れ日とのコントラストが大変美しかったです。

 


















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祭神は大己貴命(おおなむちのかみ)、即ち大国主命で出雲大社と同じです。先々週も奈良で三輪神社で同じ神様を拝ませて頂きました。15分程度の山登りの後本殿に着きましたが、境内の建物は何れも重文指定で見ごたえ十分でした。大山登山のルートの一部になっており、登山客も多いです。





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大山寺は神社より低い位置にありますが、入口は二手に分かれるものの参道の途中で連絡通路あり、神社で参拝後大山寺境内に入る事ができます。







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米子城に登りました。吉川広家が築城しましたが、関ケ原の戦い後毛利氏が防長二州に押し込められた後、家康は駿府にいた中村一忠を伯耆一国(18万石)に配置し、こちらを主城としました。広家は関ケ原の戦いで故意に傍観し、毛利軍を動かさず東軍勝利の要因を作った武将ですが、この後彼は岩国で領地をもらい岩国城を築きました。そういえば岩国城も錦川を見下ろす山の上に城を築きましたが、やはり高い所が好きだったのでしょうか。大山も見事ですが、その反対方向では足元に米子市街、遠く島根半島と手前の境港、そして弓ヶ浜を挟む日本海と中ノ海と絶景が続きます。見事な縄張りでした。続百名城として指定されています。

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