両国そぞろ歩き ~ NOV.2025 ~
- 羽場 広樹

- 11月12日
- 読了時間: 5分

両国には相撲を観る時にしか来たことは無いのですが、大相撲の無い平日を狙って静かな両国界隈を歩いてみました。

11月に入りNHK大河ドラマもラストスパートです。『べらぼう』の主人公蔦谷重三郎は晩年に入り、老中松平定信の失脚後の江戸がこれから描かれていきます。脚本も配役も素晴らしかったですが、とりわけ今注目しているのは葛飾北斎演ずるコメディアンのくっきーです。蔦重は喜多川歌麿を大成させただけではなく、駆け出しの頃の葛飾北斎を滝沢馬琴の本の挿絵を任せ世に出しました。

これから一か月の番組でどれだけ北斎の絡みがあるのかわかりませんが、くっきーの怪演が楽しみです。大江戸線両国駅から伸びる“北斎通り”を300mくらい歩くと、津軽藩上屋敷跡に“すみだ北斎美術館”があります。ちょうど“北斎をめぐる美人画の系譜”と称し特別企画展をしていました。“べらぼう”関連の展示も併設してますが、11月24日までという事でご興味有る方にはお薦めします。北斎は印象派にも影響を与えたと言われてますが、訪問客の8割以上は海外から来られた方々でやはり国際的な人気のようです。

同じ津軽藩邸敷地には、近所に部屋を構えていた高砂親方が出雲大社を勧請した野見宿禰神社があります。出雲にいた野見宿禰(のみのすくね)は垂仁天皇の命で当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲を取り、勝って天皇に仕える事になりましたが、これが日本で初めて行われた相撲です。

日本相撲協会が歴代の横綱を石碑に刻んでますが、我が郷土の英雄、輪島と大の里の名前も刻まれてました。感無量です。

さて両国の名前の由来は、武蔵と下総の国境から来ています。永らく隅田川が国境かと思ってましたが、実は3km程東にあった様で両国駅を含む墨田区の南部は元から武蔵国でした。貞享三年(1686年)幕府は国境を江戸川に動かす許可を朝廷に届けて受理されましたが、江戸時代にそうした手続きが行われたのは興味深いです。所謂利根川東遷事業を始め東京湾に流れ込む川の治水、利水(含む水運)事業が一段落した事、及び江戸が国を跨いで拡大を続けている状況に鑑み為されたのでしょう。

明暦の大火(明暦三年、1657年)では十万人以上の死者が出ましたが、これがきっかけで両国橋が架橋されました。それまで隅田川に架けられていた橋は千住大橋しかなかった為、多くの人々が逃げ遅れました。将軍家綱はこれを哀れみ両国橋を渡った地に念仏堂を建立しましたが、これが回向院です。相撲が営利興行として人気が出たのは寛政期からだそうですが、回向院で定期興行が天保四年(1833年)から行われていた事から、当地で最初の国技館が建設されました(明治四十二年、1909年)。戦後国技館は隅田川対岸の蔵前に一旦移りましたが、現国技館が昭和六十年(1985年)に建設され、大相撲は再び両国の地に戻りました。

回向院には『べらぼう』の登場人物では山東京伝の墓があります。浄瑠璃の竹本義太夫や鼠小僧のお墓に隠れるように建ってました。

京伝は生涯二度吉原の女郎を身請けしました。脚本家の森下佳子さんは史実に基づきながら登場人物の人となりを“さもありなん”と生き生きと表現しており、ドラマの面白さは脚本に依る部分も多いです。

回向院の裏に回ると“忠臣蔵”の舞台、吉良上野介義央(きらよしひさ)の屋敷跡になります。殿中刃傷事件の後間もなく義央は隠居し、屋敷は呉服橋から両国に移されました。吉良家はそもそも足利将軍家の一門で三河の守護でありましたので家康は処遇に気を使い、高家旗本として4,200石ながら三河の先祖の地に領地を与えて厚遇しました。

討ち入り後、2,500坪あったご隠居用の屋敷は町人に売られました。志士達は義央の首級を掲げ、“いちのはし”を渡り泉岳寺に向かったとのこと。

時代は下り、吉良邸跡の近くで勝海舟が生まれました。海舟の実父は幕臣の男谷家から勝家に養子に来たようですが、海舟は七歳迄父親の実家で育てられたようです。

勝海舟は人となりに毀誉褒貶有るものの維新の功績は論を待たないですが、幕臣として近代日本の礎を築いたのはやはり小栗上野介忠順でしょう。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で漸く主人公として取り上げられる事になりました。四年前の『青天を衝け』では武田真治が演じましたが、今回は松阪桃李が演じます。勝海舟は大沢たかおとの事で今から楽しみです。去年菩提寺の東善寺にお邪魔しましたが、ご住職も喜んでいらっしゃるでしょう。

両国駅を北に上ると関東大震災や東京大空襲を伝える資料館や、被災者の納骨堂として建てられた慰霊堂が並びます。回向院も含め、両國は江戸・東京を巻き込んだ大災害被害者の鎮魂の地でもあります。

旧安田庭園と呼ばれる日本庭園が隣接しています。造園したのは本庄宗資、将軍家光に嫁し綱吉の母となった玉(桂昌院)の弟であり、公家の二条家の家臣から抜擢され常陸笠間藩5万石の大名となりました。桂昌院は大変信心深く多くの寺社を復興・補修しましたが、護国寺の建立、唐招提寺の補修、室生寺への援助等枚挙にいとまが有りません。八百屋の娘が将軍に輿入れした「玉の輿」のモデルと言われてますが、史実は上述お公家の家来だった武家の出身でした。

当地は明治に入り、旧岡山藩主池田侯爵、安田財閥と持ち主を変え、昭和二年から一般公開されています。相撲見物の前に国技館やスカイツリーを借景にお庭を眺めるのも粋かもしれません。





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