中世を感じる寺詣で ~ 龍興寺(加須市)・甘棠院(久喜市)・喜多院(川越市)
鎌倉時代、足利氏の歴代当主は通常北条氏から嫁をもらいその子を嫡子としてました。次男だった尊氏は長兄高義が21歳で早逝した為偶々当主となりましたが、嫁は北条氏一族から嫁いだ赤橋登子(最後の執権北条守時の妹)、母親は上杉氏(藤原北家勧修寺流)でした。尊氏の覇業を支え、後に観応の擾乱で袂を分かった直義は同腹の弟となります。尊氏は登子との間に二男有りましたが、長男義詮は二代将軍となり、次男基氏は初代鎌倉公方として関東を分割統治させ、その後見として上杉氏を関東管領として配置しました。鎌倉東慶寺で北条一族は殆ど滅びましたが、足利氏には北条氏の血統が脈々と続いていきます。
京と鎌倉、足利と上杉の二元統治システムは微妙な牽制で成り立ってますので、世代を経るに従い将軍と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領の関係は緊張が高まりました。強い三代将軍義満が現われ南北朝合一を果たし天下泰平となるかと思いきや、義満が1408(応永十五)年に薨去した後、上杉禅秀の乱(鎌倉公方vs関東管領、1417年)、永享の乱(将軍vs鎌倉公方、1438年)、結城合戦(1440年)と関東はいち早く戦国時代へと突入していきました。
永享の乱では鎌倉公方持氏は嫡男義久と自害、逃れた息子達(春王・安王)はその後結城氏に担がれ戦うも捕えられ、美濃国不破で処刑されました。龍興寺は持氏の伯父が中興したもので、持氏と春王・安王の供養塔があります。
その後持氏一族を厳罰に処した将軍義教は嘉吉の乱(1441年)で赤松満祐に討たれ、持氏の息子成氏は鎌倉を諦め古河に公方館を構えます。関東は暫く北条早雲の登場まで、古河公方、北の山内上杉家、南の扇谷上杉家の三極構造となりました。成氏の息子政氏は両上杉氏との駆け引きをしている内に二人の息子(高基、義明)と不和となり、久喜で引退し甘棠院を開山(1519年)しました。
後北条氏は小田原を拠点に自領を拡大し扇谷領を浸食し、北条氏康は河越夜戦(1546年)で遂に扇谷上杉家を滅ぼしました。その渦中で炎上し、一時期衰退したのが喜多院でした。このお寺はかつて無量寿寺と呼ばれ、鎌倉末期に伏見天皇から“関東天台宗の本山”という地位を与えられてました。
復興したのはあの天海僧正であり、蘆名氏(三浦氏)の一族とか実は明智光秀だったとか諸説あり謎多き人物ですが、驚くのは当時としては珍しく天寿(108歳)を全うしました。北条氏康から徳川家光まで同時代を過ごした人物はこの人しかいないに違いありません。
不思議だったのは、寺紋が足利家と同じ二つ引き両でしたが、どうやら天海僧正の家紋だそうで出自のヒントもそのあたりにあるのかもしれません。川越大火(1638年)で伽藍が焼け落ちた後、将軍家光は復興を命じましたが江戸城紅葉山御殿の一部を移築しました。お陰で春日局や家光御生誕の部屋を見る事が出来ます。
最後の古河公方は、上記父親を追い出した足利高基の孫義氏であり、彼には娘(氏姫)しか居らず同家は断絶しました。豊臣秀吉は氏姫と義明(高基弟)の孫の国朝を婚姻させ、下野喜連川領を与えましたが、徳川家もこれを安堵し明治維新を迎えました。別稿で書きましたが、足利将軍家は消滅しましたが、鎌倉公方(古河公方)家は細々と江戸時代を生き残った事になります。唐突ではありますが、太平記の赤橋登子様(沢口靖子)は本当に綺麗でした。
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