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江北を彷徨う ~ 彦主人王(ひこうしのおう)御陵 APR,2024


名神高速を西に走らせると途中下車したくなる旧跡が数多く現れます。関ケ原を越えて近江に入ると米原で分岐し、南に下ると豊饒な近江平野が拡がり神社・城郭・仏閣が目白押しであり、北に北陸道を進むと彦根城を皮切りに小谷城、姉川・賤ケ岳古戦場が並んでます。ぽつんと浮かぶ竹生島を拝みながら琵琶湖は徐々に先細り、日本海側に抜ける山々が迫ってきます。古代より若狭湾と琵琶湖を繋ぐ街道は幾つか整備されていましたが、何れも琵琶湖の水運を経由し、京阪神に繋がる輸送システムとして発達してきました。 


継体天皇は応神天皇の五世孫であり、継嗣無く崩御した武烈天皇の後、大和の有力豪族に推戴され即位されましたがその父親、彦主人王の墓が湖西の高島に在る田中王塚古墳に比定されています。








五世紀という資料の少ない時代でもあり、五世孫という皇室の本流から離れて久しい血統から信憑性が問われる事も有ったようです。戦後の盲目的なマルクス史観の呪縛も薄れてきたようですし、謎の四世紀や続く五世紀への自由な研究や発見が今後どんどん出てくる事が期待されます。

 




応神天皇と次の仁徳天皇は百舌鳥古墳群で大きな前方後円墳を陵墓とする有名な天皇ですが、仁徳天皇の異母弟の皇子(稚野毛二派皇子 - わかぬけふたまたのみこ)が彦主人王の曾祖父にあたり、祖父(意富本杼王 – おおほどのおおきみ)の妹が允恭天皇の妃となり二人の天皇(安康・雄略)を産んでますので、所謂倭の五王時代は皇室本流の母方の実家として重きを為していたものと想像されます。その後意富本杼王の子である乎非王(おいのおおきみ)は美濃牟義都国造の娘を、彦主人王は越前三国の振姫を、更に即位前の継体天皇は尾張氏(目子媛)から妃を娶り、この系統が近隣有力豪族との血縁関係を基に北近江を中心に支配体制を強固にしていきました。上述畿内への水運物流の重要拠点に位置し、血統上だけでなく経済力も兼ね備えた“宮家”的な位置づけだったのではないでしょうか。継体天皇は武烈天皇の妹(手白香皇女)を娶り後の欽明天皇を儲けますが、その後目子媛との間の子供(安閑天皇)を立太子しており、必ずしも武烈天皇の系統にその権威を依存していたわけでもないと思われます。 


古墳の近隣には安曇川(あどがわ)があり、JRの駅名にもなってます。琵琶湖に流れ込む最大河川ですが、湖西最大の扇状地を形成しています。安曇氏のルーツは筑前糟屋郡安曇郷と言われており、海人族(航海・漁労の民)の一つとして日本書紀の中でも度々出てきます。略日本全国に由来とする地名が有りますが、有名なところではヒスイを求めて頚城平野から信濃に入った長野県安曇野の御先祖達でしょう。古代安曇川の人々は、彦主人王-継体天皇の北近江統治及び日本海-淀川水系の水運業において、得意の航海術や軍事面で貢献していたのでしょうか。

 


時代は下り10世紀に延喜式(律令の施行細則)において、六十余州の国々がその国力に応じて4等級で分けられました(大国・上国・中国・下国)。中でも大国は畿内では近江・大和・河内の3国が定義されてますが、越前も大国の一つでした。奈良期以前は、加賀・能登も含まれてましたので更に越前は重要な位置づけだったと推測されます。上国であった美濃・尾張の勢力も含め、近江・越前を制する事は天下を制する近道だったのでしょう。

 











時代は更に下り、明治五年での各国の人口は以下の通りになります。近江51万人、越前40万人、大和36万人、美濃60万人、尾張64万人、大坂を含む摂津80万人、京都を含む山城49万人。江戸を含む武蔵は171万人でした。或る程度都市化が進んだ明治維新直後の時点との比較になりますが、1873年で越前+若狭で人口は48万人、現在福井県人口は76万人になります。日本の人口は30百万人から120百万人になったとして4倍になりましたが、福井県は1.6倍であり都市化の洗礼を受けず過疎化が進む日本の地方は大方同様な傾向にあるでしょう。6-7世紀の日本の総人口は500万人程度だったと言われてますが、都の豊かなバックヤードとして近江・越前は更に重要な位置づけに在った事でしょう。当該地域が舞台だった壬申の乱が起こりましたのは、継体天皇が崩御し140年後の事でした。

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