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毛利両川 MAY,2024


元就は1557年(弘治三年)に『三子教訓状』を息子達(隆元、元春、隆景)に贈り、兄弟が結束して毛利家を盛り立てていく事を諭しました。厳島の戦いの二年後であり、安芸に加え大内領を取り込んだところで、その後尼子と本格的に対峙していく事になります。

 


頼朝は御家人を地頭として各地に送り込みました。中国地方には熊谷氏や宍戸氏など関東から来たと連想できる氏族も居りますが、毛利・小早川は相模、吉川は駿河の地頭であり転勤でやってきたものです。毛利氏は頼朝の股肱の事務官僚だった大江広元の四男季光から始まった氏族であり、元就は11世後の子孫になります。

 




広島を拠点に毛利両川の故地を巡りました。広島空港は旧安芸国の東に寄っており、ビジネス的には不便極まりない立地ですが、小早川氏が治めた地域になります。小早川隆景は永らく分裂していた二つの小早川家(沼田・竹原)を統合し、高山城から新高山城へと本城を移し、三原城を水軍の拠点として整備しました。三原駅は三原城の本丸を突き抜けて作られてますが、天守台と取り巻く御堀は保護され新幹線が脇を通り過ぎていきます。 


下りの新幹線は三原駅を過ぎた後間もなく、高山城と新高山城の下をトンネルで通過します。両城の間を流れる沼田川を渡河するところで新幹線は僅かに顔を出しますが、三原エリアでは小早川の城跡を辿りながら新幹線は走ります。新高山城は標高200メートル弱の山に作られており、この程度ならば軽く行けるかなと登りましたが想像以上に急峻で疲弊しました。本丸跡の頂上は絶景でしたが中世の山城は舐めてはいけません。隆景は19歳で新高山城を拠点とし、52歳で三原城に移り、毛利家の版図拡大と共に瀬戸内海の制海権を担う同家の役割は大きくなりました。


毛利の東の前線は備中・備前から播磨へと動き、やがて姫路を拠点とした秀吉と対峙する事となります。秀吉は天下を取る過程で隆景を直臣として取り込むべく執拗に働きかけを行いましたが、隆景は毛利家の一員としての立場を守り通しました。秀頼が生まれた後、秀吉は後継者候補の養子木下秀俊の処遇に困り毛利輝元に養子としてだそうとしますが、隆景は自分の養子にと懇願し秀俊は小早川秀秋と改名しました。秀秋は関ヶ原の二年後死去し無嗣改易となりましたので、隆景は小早川家を犠牲にして毛利家を守りました。 


毛利輝元が広島城を1589年(天正十七年)に築城する迄、毛利氏の居城は吉田郡山城でした。頼朝から安芸吉田荘の地頭で派遣されて以来、四百年弱の間安芸北部を拠点とし勢威を拡げてきました。広島から国道54号線を北上し1時間余りで安芸高田市に入りますが、ここが今話題の都知事選立候補を表明した石丸市長の地盤であり、毛利の本拠地でした。郡山城の麓に立つ安芸高田市歴史民俗資料館に事前に立ち寄り、予習をした上で城を登りました。尼子晴久三万の襲来を撃退した城であり、こちらも戦略的な城で1時間余りかけて歩きつつ山城を堪能しました。 


安芸北部に入ると川の流れる方向に違和感を覚えます。この辺りは太田川ではなく、日本海に注ぐ江の川の支流が流れています。広島というと太田川河口の広いデルタ状の平地や数本の川がイメージされますが、実態は平地が少なく、輝元が築城した頃は広島城は海岸線にほど近い場所でした。鎌倉末期に守護として赴任した武田氏は、広島市内を見下ろす武田山と呼ばれる標高400m程の山頂に城を築きましたが、必ずしも安芸国全体を抑える拠点とはなり得ず、国内に盤踞する勢力を束ねる事は出来ませんでした。西の大内、出雲から勢力を拡げる尼子と対峙するべく、吉田郡山を中心として両翼を構成する吉川氏・小早川氏、そして宍戸氏と、元就は婚姻政策で安芸を取り込みんでいきました。 


浜田道を北上し、大朝インターを降りると吉川氏の居城、小倉山城があります。城自体は20分程度で周遊できる規模で堅城とは言い難く、元春はその後主城を日根山城に移した後、尼子氏が滅び吉川家は本拠地を月山富田城に移しました。吉川領は大内氏と尼子氏が争った石見への玄関口に位置していましたが、毛利領の拡大に伴い山陰道を制しやがて因幡・但馬で織田家と対峙します。吉川氏は出身地である駿河から八幡宮を勧請し、龍山八幡宮を小倉山近郊で建てましたが、現本殿は元春が再建したもので重要文化財に指定されています。 


吉川氏は鎌倉時代後半に安芸吉川氏と石見吉川氏に分かれますが、前者を元春が継ぎ、後者は鳥取城籠城戦で名を馳せた経家を出しました。元春の子広家は関ケ原で軍を動かさず、防長二国を主家に譲り岩国3万石の領主となり、経家の子孫はその家老として共に明治維新を迎えました。岩国領主吉川家は、長州藩の中では高直しを経て6万石の領主として自治が認められていたものの江戸幕府体制の中では正式な諸侯ではなく、歴代領主は無位無官でした。幕末、長州藩は二度に渡り幕府軍を迎え撃ちますが、岩国領主吉川経幹の活躍により藩は危機を脱し、吉川家は新政府により1868年(慶應四年)に正式な大名として認められました。貰った官位は従五位下駿河守と、粋な計らいでした。 


元就の教えの通り、小早川・吉川両家は毛利の藩屏としての役割を果たし、大江広元以来700年の時間を経て毛利氏は明治維新の大きな原動力となりました。長州藩は一度家康に潰されかけましたが大減封の中でも家臣は離れず、260年間で実質石高は略3倍の100万石に達しました。親族間で争いの絶えなかった大内、尼子が滅び毛利が何故生き残ったのか、こうした団結して事に当たる文化と恐らく不可分なのでしょう。 


安芸高田市には近年(15年前)発見された甲立古墳があり、前方後円墳であることや出てきた埴輪等が大和のものと近似していることから、謎の四世紀を解く鍵になるものとして注目されます。隣の岡山県には超弩級の大型前方後円墳がありますがこれは五世紀のものであり、吉備に大きな政権が出来る前に安芸で大和朝廷の強い影響が想定される遺跡が出てきた事は興味深いです。



古墳の側に宍戸元源の墓があります。元就は五龍姫を彼に嫁がせ従属させました。宍戸氏の祖先は頼朝の配下で活躍した八田知家ですが、『鎌倉殿の13人』では市原隼人が演じてましたね。

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