上杉謙信とその後(上越市)~ NOV,2024
上越市は高田藩の主城だった高田城、上杉謙信の居城だった春日山城、そして御館の乱で敗れた上杉景虎(北条氏康七男)が自刃した鮫ヶ尾城の三城が百名城・続百名城に指定されています。それぞれ江戸期の幾重に堀を巡らせた平城、戦国期の大きな惣構えを控えた越後の覇者に相応しい巨城、中世以来の山城と特徴が楽しめますが、肥沃な頚城平野を治めるに相応しい威容と美しさが感じられます。
本格的な城郭は、時代的には春日山城と高田城の間に、堀秀治が造った福嶋城が有りましたが今は廃校になった小学校の敷地に“福嶋城址”の石碑が建ってます。秀吉の晩年上杉景勝は会津120万石の太守となりますが、その後に入った堀秀治は春日山城の代わりとなる福嶋城を直江津の港の側に造りました。本格的な近世城郭だったようですが、堀家は入部後十年余りで改易となり、家康六男の忠輝が信州北部も含め75万石の太守に封ぜられ高田城を築きました。外様最大の雄藩前田家と領土を接しており、将来想定される仮想敵国への備えと考えられた事でしょう。実際加賀藩の参勤交代は北陸道を東進した後、高田城下を通り南下して中山道へと向かいました。
謙信が妻帯しなかったのは有名な話ですが、神格化する為のエピソードに過ぎないという解釈もあるようです。実子が居なかったのは事実であり、四人の養子を迎えましたが同族(甥)の景勝以外は、北条氏康の子の景虎、武田信玄に攻められ越後に落ち延びた村上義清の子の国清、そして自ら滅ぼした能登畠山氏の義春(実父は既に家臣により追放されていた義続)になります。長尾氏はそもそも桓武平氏の名族であり、相模国長尾荘の地頭・御家人を経て関東管領に任じられた上杉氏の家宰(筆頭家老)になり、上野・越後の守護代として勢力を張ってきました。その間上杉氏宗家(山内上杉家)と幾重にも婚姻関係を結んできたので、長尾景虎が上杉憲政の養子となり上杉謙信を名乗る事は不自然な事ではありません。謙信は春日山城から近くの平野部に“御館”(上杉憲政の館)を設けましたが、ここが謙信の死後、跡取り合戦の舞台となりました。
四人の養子の内、甥の景勝と北条家出身の景虎は越後を二分して戦いましたが、憲政は景虎を支持した為に景勝方に討たれ、景虎は上述鮫ヶ尾城で自刃し、景勝が謙信の遺産を相続しました。織田信長は畿内を抑え加賀の一向衆を追い詰めていた時期であり、三年前の長篠の戦いで既に武田勝頼の勢いは失われている中、景勝は本能寺の変まで対織田対策で忙殺される事となります。
上越エリアは古代から越後の中心地であり、国府も国分寺もありましたが、謙信は朽ちかけていた国分寺を再建し今日に至ってます(五智国分寺)。ただし正確な国分寺の位置は未だ判明していないようで、今後明らかになっていく事を期待したいと思います。
上越、信濃には、国譲りの神様である出雲の“大國主命”由来の神社が多いですが、当エリアでは地元の奴奈川姫と夫婦となり、出来た子供が建御名方命(たけみなかたのみこと=諏訪大明神)とされています。大国主命を祀る神社は丹波のものも有名であり、この古代大和朝廷に服属したと思われる神々が、出雲→丹波→越後→信濃というラインでどういう経緯で移られたのか興味深いジャンルです。直江津の西方、海にせり出した山に妙静院という古刹がありますが、ここには建御名方命生誕の岩屋があります。重文指定の大日如来像を拝観しにいきましたが、古代史のヒントはどこに隠れているかわかりません。建御名方命がどういう経緯で諏訪に落ち着いたのか研究している本有るようなので、落ち着いて調べてみたいと思います。
長尾家菩提寺であり、謙信が元服するまで預けられた林泉寺は春日山城の麓にあり、現在も美しい伽藍が整えられてます。上杉家が米沢に去った後も、堀家やその後の歴代藩主は菩提寺として保護してきました。
特に本殿左手の丘に並ぶ長尾家当主や上杉謙信の墓と共に、歴代藩主のお墓が並んでおり時間の流れが感じられます。高田藩は忠輝改易の後、お家騒動多い越前松平家宗家や譜代大名が頻繁に入れ替わり、久松系松平家が五代続いた後に白河に動き、榊原家が姫路から移封されました。松平家はその後田安家から養子をもらいましたが、彼は松平定信と名乗り老中として活躍します。更には定信の子供の代で桑名藩に転封となり、会津と共に佐幕派の盟主となる事になりました。
榊原政岑は18歳で早逝した兄の跡を継ぎ姫路藩15万石の当主となりましたが、吉原通いが嵩じて高尾大夫を身請けした事で有名な殿様です。時代は質素倹約を尊ぶ『享保の改革』が推進中であり、将軍吉宗は激高しましたが徳川四天王の一家である榊原家を取り潰す事は出来ず、同じ石高ながら実高の少ない高田藩への転封と政岑の強制隠居を命じました。それにしても、榊原政岑の墓が謙信公より立派で高台に有っていいのかしらと思いましたがどうでしょうかね。もっとも政岑は隠居後は倹約に励みながら幼い息子の後見をしっかりやり善政を敷いたとの評判です。
山門に掲げる扁額『第一義』は謙信の直筆だそうで本物は宝物館にあります。万物の真理を表しますが、見上げてますと気持ちが凛としてきます。その先に見える惣門は、かつて春日山城に在ったもののようです。
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