柴又 ~ OCT,2024 ~
正倉院文書は東大寺正倉院で保管されているものですが、帳簿で使われていた紙の裏側には廃棄された古代の戸籍が書いてありました。下総国葛飾郡大嶋郷戸籍と呼ばれるものですが、大嶋郷は現在の葛飾区・江戸川区近辺に比定されています。柴又はそこでは、『嶋俣里(しままたのり)』と書かれています。
古代戸籍は六年に一度更新され三十年経つと廃棄されていましたが、当時紙は貴重であり廃棄後は東大寺に下げ渡されました。戸籍には男性で孔王部(あなほべ)刀良(とら)さん、女性で佐久良賣(さくらめ)さんという名前が載っており、映画『男はつらいよ』の主人公名はここから取ったんですね(笑)。
所謂東京低地と呼ばれる東京湾北辺は、秩父からくる荒川水系と群馬・栃木県からくる利根川・渡良瀬川水系が衝突しながら流れ込む水害地域で、治水事業は古代から続く最重要課題でしたが、同時に開拓や船舶物流を支える利水も盛んでした。6千年前ピークだった縄文海進時、東京湾は河越や古河の辺りまで海岸線が深く切り込んでいましたが、6世紀頃は丁度柴又の辺りまで沖積平野が拡がり、人の住める環境になりつつあったようです。柴又八幡神社は小ぶりな円墳に在りますが、横穴式石室からは埴輪・馬具・須恵器等が発掘され六世紀後半のものと推定されています。
葛飾区は現在東京都にありますが、“武蔵国”に編入されたのは家康による利根川東遷事業後、寛永年間になります。武蔵と下総の国境は隅田川から江戸川に動いたわけですが、江戸川の東岸にすぐ旧下総国国府跡があり、戦国期の激戦地“国府台合戦”の舞台でもあります。因みに隅田川に架る両国橋は武蔵と下総の両国に架かるという意味ですが、出来たのは明暦大火の後ですので、当時は既に元国境でした。
古代、京の官道“東海道”は東京都を通らず、三浦半島から富津近辺に海上を移動し、上総国府(市原市)から下総を抜けて石岡(常陸国府)に通じていました。武蔵国経由陸路が東海道に編入されたのは宝亀二年(771年)の奈良時代後半からになります。道鏡は前年下野薬師寺に左遷されましたが、恐らく新東海道を武蔵国府から北上し動いた事でしょう。
源頼朝が石橋山の戦いで敗れ、三浦半島から上総に落ち延びたルートは旧東海道をなぞりました。頼朝が勢いを得たのは房総平氏(上総広常、千葉常胤)を味方に引き入れた事が大きいですが、そうした桓武平氏系同族を源氏側に勧誘し頼朝を支えたのが葛西清重であり、現在の荒川から江戸川までの所領を得ました。清重は一晩頼朝に妻を差し出したとの逸話も有り、居館跡とされる西光寺に夫婦の墓が有ります。現代人的には行き過ぎた忠誠心に見えますが、清重は奥州征伐の後、現地で奥州総奉行として所領を得ました。
葛西氏は鎌倉幕府滅亡後後醍醐天皇をサポートしますが、南北朝期に宗主家は東北に動き戦国時代には伊達氏、大崎氏と割拠し覇権を争いました。豊臣秀吉の奥州仕置で滅亡し、四百年の歴史を閉じる事になります。
関東の戦国時代は享徳の乱(1455年、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺)で幕を開けたと言われてますが、その後百年余り、公方と二つの関東管領家の三つ巴時代や扇谷上杉家に代わって関東の覇権を目指した後北条氏の時代を通じ、葛西城は最前線拠点として重きをなしてきました。当初扇谷上杉家の拠点として築かれましたが、後北条氏側がこれを奪い、上記国府台合戦の舞台になります。北条氏綱は古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ、嫡子義氏はここで元服し最後の古河公方となりました。豊臣秀吉は、国府台合戦で滅んだ足利義明の孫と義氏の娘(氏姫)を結婚させ、古河公方家を下野喜連川に封じ家康はこれを引き継ぎました。喜連川家は、徳川将軍家の“客”として明治維新を迎えますが、僅か5千石ながら10万石の格式を与えられ、御所と呼ばれました。城跡は現在住宅街の中にあり、小さな城址公園となってますが改装工事中でした。
さて柴又といえばもちろん帝釈天です。先ずは近所の真勝寺に立ち寄り、地元の名主が江戸前期に置いた五智如来の石造を拝みましたが、そこから見える帝釈天の山門は味わい深く、近辺の江戸時代の風景を少し想像できました。
残念ながら、邃渓園(すいけいえん)は開いてませんでしたが、本堂の彫刻ギャラリーは素晴らしくじっくり鑑賞する価値あります。
菅原孝標は寛仁四年(1020年)上総介(※)の任期を終え、京に戻りましたが同行した娘(13歳)は日記を起筆し、その後四十年に渡る生活を更級日記として残しました。その中で彼女は太白川(現江戸川)を渡った事を記し、当時上総国府(市原市)から千葉経由江戸川を越えて東海道を西に動いた事がわかります。又、15世紀末に地震で海と繋がる前の浜名湖の描写もされているようです。伯母は兼家の妾、道綱の母と呼ばれる歌人で、『光る君へ』では財前直見さんが演じられてました。
(※)上総、上野、常陸は親王が守として任ぜられる国で、介が実質長官として現地に赴任してました。織田信長が当初名乗ってましたね。
寅さんミュージアムの昭和の町並みや撮影セットにはほろりときました。寅さんは昭和九年(1934年)生まれで、10歳の時に妹のさくらと江戸川の土手から東京大空襲を見ました。昭和が遠くなっていきます。
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