義仲が育った故地 ~SEP,2025~
- 羽場 広樹
- 10月1日
- 読了時間: 5分
更新日:10月2日

長野県南部を縦に走る二つの谷(木曾谷と伊那谷)には西側を木曽川、東側には天竜川が流れてます。前者の源流は鉢盛山、後者のそれは諏訪湖で、水源は直線で30kmにも満たない距離ですが、県南で大きく方向が分かれそれぞれ伊勢湾と遠州灘に向かいます。伊那谷は広々とした河岸段丘による盆地が続き牧歌的ですが、木曽谷は狭く鋭利な斜面が川の両側に迫ります。寝覚の床と呼ばれる花崗岩の川床は中生代のマグマの痕跡であり、木曽川の急流が造った芸術ですが、半世紀前に木曾ダムが出来て急流が消滅し常時“寝床”が見えます。

臨川寺の門前から入り川に降りました。寝覚の床は、諸国を放浪し当地に辿り着いた浦島太郎が玉手箱を開けた場所だそうで、同寺には釣り竿が保管されてます。かつては単なる昔話でしたが、昨今夙に時間の経過が早く感じられるようになり、過去の出来事が夢幻の如く感じるのは他人事ではないと思いました。

狭い木曾谷からよく義仲のようなヒーローが出たなと思います。頼朝と義仲は従弟の関係であり、それぞれの父は保元の乱で勝利した為義の長男義朝と次男義賢になります。兄弟間で関東の覇権を競う中で、義賢は秩父平氏の棟梁である秩父重賢と組み、義朝の長男義平と戦い討たれました。義賢の館(大蔵館)跡は埼玉県嵐山町にあり、今は神社になっています。

義賢の息子義仲は当時二歳で、斎藤実盛に抱かれ遠路木曾に亡命しました。後に義仲は平家軍を破りつつ京へ快進撃を続けましたが、途上平家方にいた実盛を知らずに討ち取った事を知り落胆します。四年前に大蔵館跡、昨年実盛の首を洗ったとされる池を訪れましたが、やっと義仲の故地に来れました。

幼い義仲は、現地豪族の中原兼遠に預けられました。兼遠邸宅跡は、木曽路を貫き塩尻と名古屋を結ぶ中央西線のそばにありました。木曾谷に線路が敷かれたのは明治四十四年(1911年)、狭い谷を移動していると至る処に線路や駅が見えます。

直線で5km程遡ると義仲の邸宅跡があり、旗挙八幡宮として祀られてます。境内にあるけやきは樹齢八百年、落雷に遭い樹勢は衰えてますが接ぎ木をしながら生き延びてます。義仲は治承四年(1180年)に挙兵、寿永二年(1183年)七月に入京し、翌寿永三年(1184年)一月に近江粟津(大津市)で討死しました。

近所には義仲が勧請したとする南宮神社があり、本殿そばには7-8m程度の滝が落ちてます。美濃の西端(垂井町)に本社がある金属の神様を祀りますが、当時木曾は美濃国に属してたので美濃国一宮である南宮本社の神様を分祀したのかもしれません。その後信濃国に編入されますが、江戸時代は尾張藩の管轄下になり、木材産業と木曽川の海運から考えると東海エリアとの繋がりが深かったと推察されます。

中原兼遠邸宅近辺の集落には兼遠が義仲の学問習熟の為に勧進した天神様が祀られており、手習天神と呼ばれてます。

隣接する公民館の敷地には「義仲桜」が植えてありました。義仲は木曽路を北上し小県郡依田城(上田市)で挙兵しましたが、その際岩谷堂観音で戦勝祈願した事から上田市の高校生が境内の桜の苗木を贈ってきたものです。

近くには「巴松」の苗木も植えられてます。巴御前は宇治川の戦いで最後の五騎になるまで奮戦し、その後越中砺波の石黒氏を頼り落ち延びたと言われてます。彼女は尼となり、91歳で天寿を全うしたそうです。砺波市福光には巴塚があり、葬られた後植えられたと言われる樹齢750年の松が現存しており、この苗木を譲られたそうです。

義仲館では義仲や巴御前のエピソードが描かれ、数年前にリニューアルしたとの事で楽しみにしてました。残念ながら数か月前に休館日が変更となっていた事に気が付かず、中に入れませんでしたが平日トラベラーあるあるですね。二人の像だけ拝ませて頂きました。

中世木曾地域を領した木曾氏は義仲の末裔を称しました。戦国期武田家臣となった義昌は勝頼から離反し織田方につきましたが、信玄の娘との間に出来た義利の出来が悪く、結局改易となりました。子孫は木曾を領した尾張藩に召し抱えられ、義仲館に隣接する徳音寺には義仲廟所が享保年間に建てられてます。建物の屋根には源氏の紋、笹竜胆が輝いてました。

徳川幕府と尾張藩は木曾地域の行政を木曾氏の重臣達に委ねましたが、中山道の主要関所である木曽福島の関所の代官は江戸期を通じて山村氏が務めました。新居・箱根・碓氷・木曾福島は江戸期の最重要関所でしたが、同じ氏族が代官を務めたのはここだけだそうです。

実際に代官所の現場を預かったのは山村氏に仕えた高瀬氏でしたが、現在も高瀬邸が番所跡に隣接しておりご当主の女性から丁寧な説明を頂けました。同家は中世肥後を領した菊池氏の一族で、同氏滅亡後山村氏に仕えたようです。大阪夏の陣後、主人の山村氏が関所の代官となり木曽福島に同行しました。昭和二年にあった木曽福島の大火事で当家も燃えたそうですが、漆喰の蔵だけは焼け残り、中にあった貴重な家宝や文献を見させて頂けます。

この家は島崎藤村の姉の嫁ぎ先として有名で、藤村自身や家族の足跡が多くあります。「家」という小説には高瀬家の事が多く書かれているそうで読んでみたいと思います。

木曽川の対岸には木曾氏や山村氏の菩提寺である興禅寺があります。木曾氏12代の信道公が室町時代に開基したとのことで義仲の宝篋印塔が置かれてました。福島宿は狭い木曽川の両岸に今でも古い街並みが整然と並んでますが、同寺は取り分け大きな存在感を見せてます。

重森三玲監修の御庭や新築の宝物殿、一連の墓石群は一見の価値あります。

福島宿の北、次の宿場が藪原で、藪原神社と極楽寺が並んで線路と街並みを見下ろしてます。極楽寺には藤田嗣治の天井画があるそうですが、静かな境内で人気が無かったのでお詣りして帰宅の途につきました。縁が有れば観る機会もあるでしょう。その次の宿は有名な奈良井宿ですが、その手前で右折し伊那路に向かいました。

江戸時代、主要街道だった中山道はわざわざ険しい木曽路を通りましたが、古代の東山道は中津川から高坂峠を越えて飯田に抜けて伊那路を通ってました。道のインフラは国家統合の基盤の一つであり、こういう経緯を調べたら面白いかもしれません。さて、将来近所の山中をリニアモーターカーが時速五百kmで駆け抜けていく予定ですが、いつになるのでしょうね。
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