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秋の大和路(今年は山の辺の道) ~OCT,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 10月17日
  • 読了時間: 6分

更新日:10月25日


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山の辺の道は日本最古の官道と言われており、奈良盆地の東南辺の山際に沿って敷かれてます。ちょっと高台にある理由は、古墳時代に奈良盆地の多くは湿地帯や沼地だった為であり、更に遡れば縄文期は湖だった事によります。道沿いにある古墳や神社は当地がヤマトの国の発祥地であった事を物語っており、紀記の逸話を重ねながら歩くと楽しいです。眼下には大和盆地が拡がり、その先には生駒・金剛の山々が連なります。 


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今回は卑弥呼の墓ではないかと期待されている箸墓古墳(はしはかこふん)を先ずは訪れました。全長278mの前方後円墳で三世紀半ばから後半の築造と見られています。昨今は発掘された土師器、埴輪の形状、木材から炭素14年代測定法による年代アプローチが盛んであり、前方後円墳の時代別の形状からも築造年代は絞られてきました。

  


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宮内庁は当該墓は第七代孝霊天皇皇女「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓としてますが、日本書紀では彼女の夫は大物主神(おおものぬしのみこと)、即ちヤマト王権に国譲りをした出雲の神様であり、三輪山を神体として大神神社(おおみわじんじゃ)に祀られてます。書紀では大物主神の姿(小さな白蛇)を見て彼に恥をかかせたとして彼女は陰部を箸で突き自殺しました。一皇女の墓で三世紀にこれだけの規模の前方後円墳が築かれたのは一見違和感あり、卑弥呼かどうかは別として三輪神と共にヤマト王権の確立に一役かった方ではないかと想像されます。 


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数年前に橿原考古学研究所が発掘した土器では、地元のものと吉備地方のものが見つかったようです。後に第十代崇神天皇は四道将軍を派遣し日本統一を目指し、その中の一人である吉備津彦命(きびつひこのみこと)は吉備方面に派遣されましたが、倭迹迹日百襲姫命の同母弟でした。書紀では第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの歴史は簡素に書かれており、欠史八代と呼ばれ実在性を一般的には疑われてますが、科学的なアプローチと照らし合わせながら引き続き謎が解明されていく事を期待します。 


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明治維新まで大神神社の神宮寺だった平等寺から、山の辺の道を北上したいと思います。本寺は元々聖徳太子によって建てられましたが、関ケ原の戦いの後、薩摩に逃げ帰る際に島津義弘が七十日間潜伏、滞在しました。

 

 





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当寺は廃仏毀釈で一旦すべて整理されましたが、昭和五十二年(1977年)に再建されました。大神神社は変わらず三輪山の麓に鎮座し、大和国一宮の威容を誇ります。ここから山の辺の道を伝い石上神宮まで12km程度の距離があります。古代と変わらず幅2m程度の小道で、複数のリタイアされたシニアの方々が歴史探訪とハイキングを兼ねて歩かれています。

 



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檜原神社は“元伊勢”と呼ばれますが、字の通り天照大神が伊勢神宮に遷られる前に、こちらで仮宮しました。皇居内で天照大神を祀っていたものを第十代崇神天皇は適切な鎮座地を探すべく要請を出し、第十一代垂仁天皇皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)は数々の候補地を見つける旅に出て終に伊勢神宮の地を見つけました。

 



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穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)も起源不明の古代の社ですが、摂社に相撲神社があり国技発祥の地とされています。

 








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垂仁天皇は地元代表の当麻蹴速(たいまのけはや)と出雲代表野見宿禰(のみのすくね)を対戦させ、野見宿禰が快勝しましたが、これが我が国最初の相撲でした。昭和三十七年に日本相撲協会は当時の理事長(双葉山)をはじめ横綱(大鵬、柏戸)以下全幕内力士を連れて当地で奉納しました。

 
















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近くには第十二代景行天皇が営んだ纏向日代宮(まきむくひしろのみや)伝承地がありました。景行天皇の息子が日本武尊(やまとたけるのみこと)であり、ヤマト朝廷による統一事業が大きく進捗します。

 





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暫く歩くと、景行天皇陵と崇神天皇陵が道沿いに続けて見えてきます。現在比定されている天皇陵は幕末期、孝明天皇の時代に短期間で治定されており、疑義が生じているものが少なからずあります。一方で陵墓がその後奈良盆地西部から河内平野に移っていくのは、そのままヤマト王権が日本国内および朝鮮半島を見据えた支配権を確立していく過程と重複します。係る大型前方後円墳は六世紀中葉まで造られました。


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長岳寺は淳和天皇(桓武天皇第七皇子)の勅願寺で、平安時代初期(九世紀初頭)の開山になります。季節毎に花が楽しめるようで、酔芙蓉が咲いてました。朝咲いた瞬間は白い花ですが、日中徐々にピンク色に変色し夕方には萎んでしまいます。

 




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JR桜井線方向に寄り道をして大和神社(おおやまとじんじゃ)を詣でます。戦艦大和の守護神であり、艦内神社に祀られてました。参道脇には星塚古墳があり、前方後方墳の疑いもあるようです。ヤマト王権のおひざ元で前方後方墳は珍しいかもしれません。

 




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夜都岐神社(やつぎじんじゃ)の周囲は、元々春日大社の社領でした。荘園の歴史や関係する神社がどういう経緯で勧請されたのか興味ありますが、当社は春日大社で古くなった社殿を60年ごとに払い下げられていたようで、やはりどことなく風格があります。





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廃仏毀釈の大きな爪痕として内山永久寺跡があります。興福寺ですら大幅な寺領損失や仏像や文化財の流出を免れえなかったわけですが、当寺は廃寺となり、境内地の多くは果実畑で池だけが寺院だった頃の面影を残しています。院政期、鳥羽天皇の勅願で開基されました。

 




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石上神宮には内山永久寺で朽ちかけていた寺内鎮守社の拝殿を大正期に移し国宝指定されており、同寺の貴重な遺構です。

 







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石上神宮は特別な神社であり、日本最古とも言われてます。古事記で描かれた神宮は伊勢と石上だけ、日本書紀ではこれらに加えて出雲が神宮とされています。ヤマト王権を武力で支えた物部氏が、武器庫として運用していたとも考えられており、国宝の七支刀が伝えられているのはその由縁かもしれません。

 



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今年は奈良国立博物館の企画展で七支刀を拝観できたそうですが残念ながら機会を逸しました。銘文は未だ不明な箇所が多いですが、少なくとも百済から送られたもので通説では東晋の太和四年(369年)の制作となります。時代的には神功皇后の三韓征伐が終わり、応神天皇の治世が始まった時期でしょうか。所謂“謎の四世紀”を紐解く貴重なヒントでもあります。 


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在原神社は明治維新までは在原寺だったそうで、在原業平生誕の地とも言われてます。祖父の平城天皇は、平安京に構える父親の桓武上皇と対峙し、都を平城京に戻しますが薬子の変で失脚し、皇太子だった阿保親王も皇位継承権を失いました。業平は親王の五男で臣籍降下し在原姓を名乗りましたが、伊勢物語では有名なプレーボーイとして名を馳せました。



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世阿弥が造った謡曲「井筒」では、業平の妻井筒が亡霊となり昔の幸せな日々を回顧します。高架の脇にひっそりと小さなお社が建ってました。

 















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山の辺の道はゆっくり見学しながら歩けば4~5時間というところでしょうか。三輪山に登るなら二日間しっかり時間を準備するのがいいかもしれません。大神神社の一の鳥居は大きくて思わず二度見三度見しましたが、後で調べたら高さは32mだそうです。以前見て大きさに驚いた弥彦神社の鳥居は約30mなので、こちらの方がやはり大きかったです。

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