三浦半島~三浦宗家は二度滅んだ~OCT,2024
海岸段丘と言いますが、三浦半島南部は侵食・堆積・隆起を繰り返してきた結果坂道と平らな地形が段々と続いており、海岸線には突き出た堆積岩が様々な形状を織成してます。海の彼方には富士山が見え、裾野には箱根の山々、その西側には伊豆半島が横たわります。
桓武平氏平良兼流の三浦為通は前九年の役で源頼義に従い、戦功により当地の領主となり、以来北条早雲が相模を征するまで約450年間存続しました。
為通の曽孫三浦義明は保元・平治の乱で源義朝に従いましたが、義朝敗戦後領地に戻り、伊豆蛭ヶ島に流された頼朝の無聊を度々慰めに行きます。義明は源家への忠誠は強く、頼朝挙兵の報を聞くや欣喜雀躍しました。援軍を率い駆けつける途上、石橋山での敗戦報告を聞き衣笠城で籠城し平家方の大軍を迎え撃ちましたが、寡兵空しく一族を逃がした後討死しました。
89歳の老武者は本懐を一族に託し、子孫(義澄、和田義盛、佐原義連等)は頼朝を支え幕府の中枢を占めていく事になります。
義明・義澄親子は海南神社で源平何れが勝つのか占ったそうです。本殿の前に鐘を鳴らす縄が沢山ぶら下がっており、どれを振らせればいいのか迷いました。
三浦半島は鎌倉から10km余りの距離に在り、頼朝は風光明媚なこの地に三つの御所を建て度々訪れたようですが、それぞれお寺(見桃寺、大椿寺、本瑞寺)になってます。日本の地方は何処に行っても廃屋が多く、三崎港の辺りも例外ではありません。港から高台にかけて密集する街並みやそれらを繋ぐ坂道、ところどころに建つ寺社を歩いて散策するのは至福でしたが、上記三寺のうち見桃寺は無人でした。残したいお寺や神社、街並みみたいなものも人口減問題の課題の一つですね。
桜の御所跡とされる本瑞寺に隣接する光念寺には、和田義盛が祀った弁財天の御堂が有ります。衣笠城が落ち、義盛は三浦義澄と共に久里浜から安房へと嵐の中海路逃げ、頼朝と合流出来ました。その後安房から北上し、上総氏・千葉氏の支援を得て捲土重来を果たした史実はご存知の通りです。
和田義盛は運慶及びその一派を関東に呼び工房を設け、伊豆・相模に多くの作品群を残しました。ルネサンスのミケランジェロ等芸術家達の工房の様なものだったのでしょう。残念ながら当地寺院の多くは予約制になっており、ふらっと訪れて拝観できる仏像は無かったですが次回仏像目的で訪れようと思います。浄楽寺には義盛が運慶に依頼した仏像五体が有り、重文指定されています。代わりに仏像は保管庫の外から拝み、前島密のお墓をお参りしました。
三浦宗家は宝治合戦(1247年)で滅びました。本事件は北条得宗家贔屓の吾妻鏡にしか記されて居らず解釈は分かれているようですが、得宗家と安達氏が三浦氏を滅ぼし、得宗体制を確立させたという位置づけになってます。その後三浦義明の十男、佐原義連の孫である盛時が宗家を引き継ぎ、得宗家の家臣(御内人)として存続する事となりました。
三浦一族は一掃されましたが唯一生き残った佐原盛時は、父が義連の子盛連、母が矢部禅尼でした。この女性は第二次三浦家成立のkey personだったわけですが、彼女は盛連と再婚する前に北条泰時の妻で時氏を産んでいました。即ち、時氏の子である執権経時、時房は佐原盛時と矢部禅尼経由血縁があり、彼女は三浦一族(義村の娘)でありながら盛時に北条方に付かせたわけです。第二次三浦氏の祖となった佐原義連の墓は満願寺にあります。
三浦氏は南北朝期を生き抜きましたが、北条早雲の侵攻を受けました。早雲は小田原城を抜いた後じわじわと相模を征していきますが、最後の当主三浦道寸義同(よしあつ)を新井城に追い詰め、三年の攻防を経て滅ぼしました(1516年)。義同は扇谷上杉家から来た養子でしたが、一族同志の争いや生家の凋落を経て命脈が尽きました。新井城の一角を為す小さな半島の、油壷湾の反対側に彼の墓が有りました。油壷はこの時の三浦一族の血が由来だそうです。
ここでよく優雅にヨット遊びができるなぁと独り言つ歴史オタクでした(笑)。
五百年前に滅んだ三浦氏ですが、半島には由来の寺社が今尚多く、地元愛を感じます。全国に一族の末裔はいますが、戦国好きの人にとっては有名な家は蘆名家でしょうか。頼朝の奥州征伐に従った上記佐原義連は戦後会津の領地を貰い、子孫が会津に土着し後に戦国大名として伊達家と対峙しました。
清雲寺には三浦氏創始の為通、為継、義継の墓とされる五輪塔が並んでます。元は二代為継のものだけだったようですが、1939年に圓通寺跡から為通、義継のものとされるものが移されました。三浦一族の聖地といえますね。
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