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調布 ~ SEP,2024


調布の名前は律令制下での税制度、租庸調からきてます。調は繊維製品や地域の特産品を対象に課税されたものですが、ここでは布で納めていたので調布となったようです。南には多摩川という大河が流れており常に氾濫リスクに晒されてきましたが、文明年間(1469-1487)に起こった氾濫は古代から有った布多天神社を押し流し、同社は文明九年に今の場所(調布駅北口甲州街道北側)に移転しました。元の場所(調布市布田五丁目)は公園(古天神公園)となっており、旧石器・縄文期からの遺跡が出てきている事から長い間人の営みが続いてきた事がわかります。


明照院に隣接する糟嶺神社(かすみねじんじゃ)は古墳の上に鎮座してます。府中もそうですが、隣の調布も古墳や古代遺跡が多いですね。








多摩川は度々氾濫を起こしましたが、一方で10万年かけて武蔵野台地を削り取り豊かな平野部と多くの湧水ポイントを造りました。立川市から世田谷区にかけて10~20mの崖が30kmに渡り連なってますが、特にこの国分寺崖線と呼ばれるエリアでは雨水が関東ローム層や礫岩層で濾過され貯められ、潤沢な帯水層を形成しています。深大寺(じんだいじ)近辺は水が常に崖から湧き出ており、湧水エリアとして有名です。



終の棲家は水が近くに有るところがいいと70歳で仙川に移住してきたのは武者小路実篤でした。彼は日露戦争に反対し、白樺派の同人として理想主義・人道主義を唱え、宮崎と埼玉で『新しい村』運動を推進しましたが、その後第二次世界大戦を支持し、戦後公職追放となりました。人によっては節操が無いと思われる方も多いでしょうが、一人の人間とて様々な価値観が共存しながら葛藤しているのは常であり、普通は他人の評価を気にして隠すところを堂々と素直に豹変するところが育ちの良さかと思います。

武者小路家は藤原北家閑院流の庶流の庶流でしたが、閑院流といえば藤原道長の叔父公季から始まる名門です。悪筆で有名だった実篤ですが、資料館には多くの原稿が展示されてました。







深大寺から1kmほど南に下ると祇園寺という雅な名前の御寺があります。かつて自由民権運動をサポートした住職中西悟玄は殉死者を弔い、板垣退助は法要で松を植樹しました。




















この悟玄の養子になったのが金沢出身の悟堂(悟玄の甥)で、彼は後に日本野鳥の会を創設しました。本堂の左右に親子の功績を称える碑と松が佇んでいます。訪れる人は少ないですが、綺麗に掃き清められた境内に凛とした矜持を感じます。






布多天神社のそばにあるのが大正寺です。大正四年に3つの寺が合併したもので、その中でも栄法寺に布田郷学校がありました。郷学校は江戸から明治前期まで有った教育機関で寺小屋や私塾より公共性が高いものだったそうですが、明治政府の学制施行と並行し小学校へと転換していきました。圧倒的に高かった日本の識字率とその後の飛躍を担保したのは、教育インフラやそれを受け入れる国民性だった事は間違いないのですが、劣化し続けているのではないかと心配するのは小生だけでしょうか。


幕末、先般訪れた深谷では渋沢栄一が出ましたが、調布は近藤勇を世に出しました。生家は人見街道、野川公園のそばに有りましたが、元々は豪農の宮川家の出身で、天然理心流宗家に養子に入り近藤姓を名乗る事になりました。







新選組と近藤勇の話は別稿に譲るとして、彼の孫、久太郎は日露戦争で戦死し、二人(祖父と孫)は龍源寺(三鷹市)で眠っています。







ところで調布に住んでいた水木しげるは、げげげの鬼太郎の住処を布多天神社の森という設定にしていました。天神通り商店街ではいつでも鬼太郎を見かける事ができます。

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