熊本地震から十年 ~ MAR,2026 ~
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東北大震災から15年、熊本地震から10年、能登地震から2年が経過しました。今世紀に入り震度7が観測された地震はこれらに加えて中越地震や北海道全域が停電した胆振東部地震もあり、我が国は5年に1度の頻度で大地震が起こっている事になります。風水害も併せ日本の災害復旧コストは莫大ですが、防衛力や医療制度もしかり平和な暮らしを実現する為には健全な労働力と経済力を維持していく重要性を改めて感じます。

熊本城ではまだ多くのエリアで石垣が崩れ、復旧工事が継続しています。天守閣は復元されたものの西南戦争を耐えた宇土櫓は解体修理中で未だ6年程復旧に要する見込みです。

それにしても熊本は江戸期の大半を統治した細川家より、加藤清正の人気が強いです。清正が秀吉より肥後北半国19万5千石を拝領したのが天正十六年(1588年)、息子の忠広が改易となったのが寛永九年(1632年)でしたので加藤家の治世は僅か44年間でした。前任の佐々成政が国人一揆を起こし改易された後の赴任でやりにくかったでしょうが、氾濫の多かった白川の治水や灌漑設備の普及で国力を増やし、熊本城と城下町を築いた清正は文武に秀でた名将でした。

熊本は水源が潤沢で、実際訪れた場所で度々熊本名水百選の案内を見ました。阿蘇山による過去幾度の大爆発に際し、火砕流と共に形成された多孔質の凝灰岩層が分厚く存在しており、これらが広域に敷衍する地下の大きな帯水層となってます。白川は阿蘇カルデラを水源とし熊本城の南を蛇行しながら有明海に注いでます。縄文期は市域の平野部は海面下でしたが、氾濫する白川が運ぶ堆積物で大きな平野が形成されました。

清正は熱烈な日蓮信者であり熊本市内を見晴らす本妙寺に廟が有ります。熊本藩は薩摩藩と並び廃仏毀釈が激しかった藩で多くの廃寺跡がありますが、こちらはお寺と清正を神とする浄池廟が境内を共有し立派な神仏習合状態で、お詣りの仕方に悩みました。

調べたら、維新後“神様”の清正は熊本城内にある加藤神社に移られたとのこと。江戸期後半以降は各藩が創業者や中興の祖である先祖を祀り神社を建てるのが流行りましたが、熊本の場合は細川幽斎でも忠興でもなく加藤清正であるところが他とは違いますね。

清正は関ヶ原の戦い後に熊本城の築城を始めました。近接した古城堀と呼ばれるエリアが旧隈本城(清正が熊本と改名したとのこと)と呼ばれる中世の城跡で、堀跡に痕跡を留めてます。

野面積みの石垣は天正又は慶長年間初期のもので佐々成政かその後加藤清正が手直しをしたものに見えます。現在小さな公園になってますが、熊本市はゆくゆくは水を貯えるお堀に戻したいようです。

天守閣や宇土櫓が有名な熊本城ですが、驚くのはその広さで約100ha有ります。城の威容は広さだけでは図れませんが、戦略性に富む縄張りや櫓の質と数、強烈な石垣のそり上がり、そして120本有った井戸等、戦闘力として同レベルの近隣藩の城を凌駕してます。因みに金沢城は石高では百万石を超えており熊本藩の倍以上の動員力が有りましたが、城の広さは熊本城の半分程度です(隣接する兼六園がいざという場合の城郭機能を担うと言われてましたが)。

清正は慶長十一年(1606年)に城を完成させましたが大阪の陣を見る事無く、慶長十六年(1611年)に亡くなりました。きっと生きていれば、熊本に数万の兵を集め豊臣秀頼方の拠点として家康に反抗したに違いありません。黒田も細川も大阪に参陣できなかったでしょう。

改易された息子の忠広は庄内藩主酒井忠勝の預りとなり、生母を含め20人ばかりの御供と共に丸岡の地で一万石の一代限りの扶持をもらい暮らしました。昨年は高山で金森家に預けられた嫡男光広所縁の寺院や酒田では丸岡館跡を訪れる機会有りましたので、今回酒田から運ばれた松の木が熊本城内で植えられているのを見て大変感慨深いものが有りました。

清正が造った鉄壁の要塞の価値は、270年後西南の役で試されました。城に立て籠る熊本鎮台の兵5千を西郷隆盛は1万3千の兵で囲み、50日間に渡り猛攻撃を仕掛けましたが突破できませんでした。

田原坂に行ってきました。熊本県北は山がちで熊本城への補給経路は限られてますが、特に小倉鎮台の大砲、弾薬を運べる道幅が確保されているルートはここしか有りませんでした。西南の役最大の激戦地であり、最も多くの砲弾が使用されました。

明治に入り秩禄処分や廃刀令等武士階級の特権喪失政策が打ち出された結果、士族の反乱が各所で頻発しました。西南の役の前年には熊本では神風連の乱が起こり、城内には関連の碑や首謀者太田黒伴雄が自刃した場所があります。但し反乱の参加者は200人程度であり、かなり急進的な尊王攘夷派が参加したものでした。桜山神社には維新前後と本件で命を落とした烈士が祀られてます。

西南の役では西郷隆盛は総勢3万の兵を率いました。この内約半分が薩摩兵であり、薩摩士族の半数が参加した事になります。薩摩藩は元々半農半士の武士が多く、家族を含め人口の2割を士族が占め、この比率は熊本藩の倍にもなります。生存者は1/3しかいなかった凄惨な内乱でしたが、近代国家に脱皮するうえで不可避な身分制度の整理を西郷隆盛と薩摩士族は自ら犠牲になり日本国民に知らしめたと考えるしか有りません。

熊本は幾つか故郷の金沢に似たところがあります。外様の大藩の城下町であった事、明治に入り旧制高校や師団本部が置かれ、学都や軍都として栄えたところも共通してます。又幕末に於いては雄藩とは一線を画して守旧派が藩政を握っていた為、維新の回天時には余り目立った動きは有りませんでした。唯一異なるのは横井小楠がいたかいなかったという点でしょう。明治維新を動かしたすべての人に影響を与えた哲人でしたが、自ら属する熊本藩では歓迎されませんでした。福井藩主松平春嶽が三顧の礼で政治顧問として迎え、維新後も明治政府から参与で招集されましたが京で狂信的な尊王攘夷派に暗殺されました(明治二年)。

小楠が建てた私塾“四時軒”跡には記念館と復元された建物があります。今や住宅街の一角ですが、幕末の政治が好きな方は必見です。出入りしていた仁の中には坂本龍馬もいましたが、船中八策の日本を洗濯するという言葉は小楠の口癖だったようです。

福井と熊本は94年に姉妹都市となり、今年は32年目になります。

中世の肥後北部は刀伊の入寇の英雄藤原隆家の末裔である菊池氏と阿蘇神社大宮司の阿蘇氏が割拠してましたが何れも統一勢力にはなれず、豊後大友氏、肥前龍造寺氏、そして島津氏に席巻され、豊臣秀吉の九州征伐を迎えました。激しかった廃仏毀釈や西南の役の影響も有ったのかもしれませんが中世の痕跡を探すのに苦労します。熊本市北部には円台寺廃寺があり明治維新まで残っていたお堂が残されてます。鎌倉時代初期に豊後に赴任した御家人の大友能直が創建し16世紀前半大友義鑑(宗麟の父)が中興しました。

成道寺は15世紀前半に活躍した菊池持朝が保護した寺院で、戦国期に菊池氏が滅んだ後、江戸期に入り細川家家老沢村家の菩提寺として寺勢を保ちました。沢村家は陪臣とはいえ1万1千石の大身で、明治に入り男爵家となりそれなりの経済力を維持していた筈ですが、かなり朽ち果てた廃寺状態を見ると恐らく末裔の一族は寺の維持を戦後どこかの時点で諦めたのかなと推察されます。こちらも名水百選の地で美しい庭園が有った様で既に半ば崩壊してますが、遠く斜面に沢村家の墓石群が見えある程度草が刈られ人の立ち入りはされている様です。上記菊池持朝は足利将軍家に仕え菊池氏全盛期の肥後の守護でした。

宮本武蔵が肥後に来たのは加藤忠弘の改易後、小倉藩主細川家が熊本に入城し8年後の寛永十七年(1640年)のことでした。藩主細川忠利より軍事顧問として招かれ晩年を過ごしましたが、霊厳禅寺の洞窟で『五輪書』を纏めました。

細川家の菩提寺(泰勝寺)も明治維新後廃寺となり、墓所は立田自然公園の中に残されてます。忠利は忠興とガラシャの三男で、跡取りだった筈の長男忠隆、次男興秋が脱落する中藩主の座を射止めました(弊稿「長男の次は三男だった」「妻とは別れず」ご参照)。忠利の長男光尚は祖父忠興の死後、肥後細川家を創業した細川藤孝(幽斎)とその夫人(光寿院)、細川忠興とその夫人(秀林院、ガラシャ)の四人の廟を整備しました。忠興は長命で83歳で亡くなりましたが、関ヶ原の戦いの際に命を落としたガラシャと46年ぶりに隣に並び葬られました。

健軍神社は熊本市最古の神社で阿蘇神社の別宮だそうですが、境内から延びる参道と思われる公道の両側にずらりと石灯籠が並び圧巻です。延々1km以上はあるでしょうか。主祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)で神武天皇の皇子神八井耳命(かんやいみみのみこと)の皇子であり、即ち神武天皇のお孫さまにあたられます。

地元の伝承を記した「阿蘇郡誌」では、かつて阿蘇のカルデラは全体が水を蓄えた湖だったものを健磐龍命が外輪山の一部を蹴飛ばして水が抜けて田の耕作が始まったそうです。地質年代的には事実で7万3千年前にカルデラ湖の水が抜けたそうで、健磐龍命と加藤清正は熊本の豊かな穀倉地帯を造った英雄になります。

武蔵塚公園にあるうどん屋で、もち入りの武蔵うどんか長いごぼう天の入った小次郎うどんを食すか結構悩んだ末に後者を選びました。ゴボウは小次郎が愛用した長い刀に由来しますが、本物は刃渡り90cm有ったようです。麺は名古屋のきしめんのようで美味しく頂きました。

車でうろうろしていると想定外の名所に偶に出くわします。大好きな「男はつらいよ」で帝釈天の御坊様を演じていた笠智衆(りゅうちしゅう)さんは、本名も同じでこちらの浄土真宗のお寺で生まれました。小津安二郎の映画によく出られてましたが、原節子と共演した東京物語は良かったですね。

NHKの朝ドラマ「ばけばけ」は、現在小泉八雲が熊本の五高の先生をやってる頃でしょうか。今は歓楽街の一角ですが、八雲が赴任した明治二十四年(1891年)は未だ西南の役で焼け野原になった城下町の復興途上だった様です。今回熊本市内を中心に回りましたが、2日ではとてもまわりきれません。次回宇土櫓が復活したら又見にきます。




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