志摩の国 ~FEB,2026~
- 2 日前
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十世紀に纏められた延喜式では、律令体制下で置かれた六十余州の国々をその国力に応じて大・上・中・下と4つのランクに分類しました。志摩は9つ指定された下国の一つで、2郡しかない小さな半島であり平地が少なく農業生産性に乏しい地域です。一方古来、若狭・淡路と並び朝廷に海産物を納める“御食国”(みけつくに)として重視されてきました。船舶交通の難所が続く海沿いには要所毎に灯台が並びます。安乗埼灯台は半島の海岸線の中点に有り、そこは志摩を二分する的矢湾の入り口でもあります。

昨夏人生初のお伊勢詣りで賢島に逗留しましたが、伊勢湾道経由ぐるりと迂回し志摩に向かい片道500km余りのドライブになりました。今回はちと趣向を変えて、渥美半島の先端にある伊良湖岬から車載フェリーで鳥羽に向かいしました。一時間ぐらいの船旅ですが、伊勢湾入口の島々を眺めながらお弁当を食べるもよし昼寝もよし、リラックスできる時間です。

途中で島の案内がアナウンスされます。伊良湖を出て間もなく見える神島は三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台とのこと。調べてみたら何と5回も映画化されて何れも島がロケ地になったとの事ですが、やはり印象が強いのは三浦友和と山口百恵のものですね。1975年公開だったようで半世紀が過ぎました。

答志島は鳥羽港近くに横たわる細長い島で、山手線2~3駅分くらいの範囲に約1600人が暮らしてます。この島は万葉集で人麻呂が詠う程歴史が古く、関ヶ原の戦いで西軍に付いた九鬼義隆が自刃した地です。

関ヶ原の戦いでは多くの大名が東西何れに付くべきか悩み、少なからず親兄弟が家名維持の為に敵味方に別れた事例が有りましたが九鬼義隆・守隆親子もそうでした。守隆は終戦後直ちに家康に父親の命乞いを行い許されましたが、嘉隆はその連絡が来る前に自裁しました。

真田家の“犬伏の別れ”は有名ですが、真田の場合西軍に付いた父の昌幸・次男幸村は死罪を免れたものの高野山への隠遁を迫られ決着は大阪の陣へと引き継がれました。

九鬼嘉隆は水軍の長(おさ)として織田・豊臣に仕え、石山本願寺包囲時の毛利水軍撃破や文禄の役で日本丸を率いて活躍し、豊臣家大名として近世城郭(鳥羽城)を築城しました。大手門は海に面していたようですが、本丸の下にある三の丸の前面は近鉄志摩線と道路が通り、鳥羽港のフェリー乗り場と水族館が見えます。

明治に入り本丸は削られ小学校が置かれた様で石垣を除き当時の痕跡は少ないですが、守りは容易くいつでも出撃可能な地勢を見るに織田・豊臣の水軍総督の矜持は感じられます。

嘉隆は城の麓にある賀多神社の神木を切り日本丸を造り、朝鮮に出撃したとのことです。

守隆は関ヶ原の戦い後鳥羽藩5万6千石を相続しましたが、父嘉隆の信仰厚かった常安寺を菩提寺とし保護しました。

親子で守った九鬼家の鳥羽藩でしたが、守隆の子息同志の跡目争いが起こり、仲裁に入った幕府により国替えとなりました。五男久隆が遺言状により主家を相続したものの、三男隆季がこれに反発したのが背景ですが、結局前者が摂津三田藩3万6千石、後者が丹波綾部藩2万石を継承する事となり九鬼家は内陸に移り水軍力を失いました。両藩はそのまま明治維新を迎えています。

主家の三田藩は内陸に移っても操船を忘れない様、城の前に池を掘り船を浮かべていたとのこと。

因みに白洲次郎は三田藩の儒官の家の出身で、ご夫妻の墓は三田市内の心月院にあります。是非今後訪れてみたい町です。

志摩の国府跡は確定されていませんが国分寺の後継寺院があり、国分寺跡地に建てられています。応仁の乱以後再興された寺院で、ご本尊の薬師如来像も16世紀初頭に造立されたものです。偶々居合わせたご住職から丁寧なご説明を頂き、ご好意で秘仏を横から拝ませて頂きました。天保年間に建てられた本堂は趣きが有り、早咲きの桜とよく合ってました。
昨年お伊勢詣りで回り切れなった寺社をぽつぽつ徘徊する事にしました。

頭之宮四方神社は“頭”にご利益がある神社で、祭神は唐橋中将光盛とされてますが実在性は怪しいです。神社そばの唐子川に髑髏が流れてきて、光盛の霊が自分を祀るべしと告げたのが由来との事ですが不思議な話ですね。知恵を授かったり、頭を守るご利益有るとのことで、受験生はもとよりバイク乗りにも好評です。

瀧原宮は伊勢神宮内宮の別宮で、そもそも天照大御神の終の鎮座地を探し求めていた倭姫命(やまとのひめみこ)が一旦決めた場所だそうで、こちらも20年に一度遷宮を行うので次の神殿予定地が隣接しています。伊勢志摩には伊勢神宮の本宮に加えて別宮も多数あり、それぞれ意味を調べて回ってみるのも面白そうです(因みに内宮に10社、外宮に4社の別宮あり)。

志摩には一之宮と呼ばれる社が二つあり、一つは伊勢神宮内宮の別宮である伊雑宮、もう一つは鳥羽市市街地近くの海の側に立つ伊射波神社です。フェリーに乗る前に立ち寄るつもりで後者に参りましたが、一之宮だから気軽にお詣りできるだろうという期待は裏切られ結構な山登りでした。駐車場から本殿まで約1kmの道程をてくてく上り下りしながら辿り着きますが、こちらも倭姫命を出迎えた伊佐波登美命(いざわとみのみこと)が祀られ伊勢神宮との関係が窺えます。

改めて古代律令体制発足にあたり何故この小さな半島の一部が切り出されて”国“になったのか不思議ですが、朝廷にとっては貴重な海産物供給国であっただけではなく、伊勢神宮が鎮座する後背地や神々の棲家として重要な信仰の場だったのではと想像されます。最新の氷河期が2万年前に終わり当時と比べ海水面は100m程上昇しましたが、奇跡のリアス式海岸の絶景はかつて浸食が進んだ山や谷が海に沈んだものです。氷河期の周期は10万年らしいので、暫くこの絶景は楽しめます。




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