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堺 古代から近世をめぐる ~FEB,2026~

  • 2 日前
  • 読了時間: 8分

中学生の頃「黄金の日々」を観てからの願望が叶い、堺に来ました。大仙公園は仁徳天皇陵と履中天皇陵の間に拡がり、多くの百舌鳥古墳群の陵墓が並んでいます。平場で古墳を見ても特に大型古墳はこんもりとした森のようで全容を掴むのは難しいですが、100メートルまで上がる気球に乗れるサービスが有るとのことで勇気を出して乗り込みました。 


高所恐怖症の為上昇するに連れてしゃがみこんでしまいましたが、大仙古墳の全容や堺市街を見る事が出来ました。大きなビルは手前に堺市長舎、遠方に“あべのはるかす”が見えます。

 






堺の百舌鳥古墳群と隣の藤井寺にある古市古墳群の築造は、“倭の五王”がいた時代、即ち大和王権が全国統一を果たし大陸王朝に朝貢し、海外に交流を拡げる時代に相当します。江戸後期から明治にかけて治定された天皇陵墓は、近年科学的アプローチの進化に伴い疑念が生じており我々が学生時代に教わった陵墓の呼称は変わってきています。現在旧仁徳天皇陵は大仙古墳と呼ばれ、公園の南にある旧履中天皇陵は上石津ミサンザイ古墳と呼ばれてますが、即位順が仁徳→履中に対して最新の年代推定では後者の方が古く(五世紀初頭)、その他の事例も含め今後本格調査により明らかになっていくことに期待したいです。 


堺の東西を流れる大和川は、太古より奈良盆地の川を集めて生駒・金剛山地を超え河内湖に流れ込んでましたが、古墳時代から中世にかけて湖は徐々に埋まり平地に変わっていきました。日本書紀の神武東征では大阪城の立つ上野台台地の先端を経て河内湖から奈良盆地に攻め入る話が描かれてますが、4~5世紀には統一王朝が国内外に向けてその権威を示す大型陵墓が築かれる場所となりました。大仙古墳の威容は当時海から眺められた様です。





百舌鳥古墳群は44基残っているようですが主要な古墳や神社を観ながら回遊しました。大仙公園からJR阪和線を渡ると住宅開発を途中で止められたイタスケ古墳があります。こちらに来ると146mの周濠墓もありきたりのものに見えます。





御廟山古墳はやや大きく(203m)、宮内庁は応神天皇皇后陵に治定しています。応神天皇陵は古市古墳群にありますが、皇后はやはり息子(大仙古墳)に近いところで眠られているようです。とはいえ後円部から暫く歩くと応神天皇のご神体である八幡様(百舌鳥八幡宮)が祀られています。




ここから数百メートル歩くと全長300mを超える土師ニサンザイ古墳が横たわります。宮内庁は仁徳天皇皇后(磐之媛命、いわのひめのみこと)陵墓と治定してますが5世紀後半のもので仁徳帝時代より時代が新し過ぎる事や、規模の大きさから他の大王級のものとも考えられ、こちらも謎が深まります。




一方堺東駅に近くにある田部井古墳(反正天皇陵)はその半分もありません。地図を見ながら歩きましたが、奇妙なことに田部井・大仙・上石津ミサンザイ古墳は略北に同じ方角を向いているのに対して、いたすけ・御廟山・土師ニサンザイ古墳は何れも東に向いてます。後者は古市古墳群に向けて造られているようにも見えますが、こうした方角も何か埋葬者の意図があるのかもしれません。田部井古墳の側には方違神社(ほうちがいじんじゃ)があり、創建は古墳築造期に遡るようです。


境内には三国丘の石碑が立ち、この辺りが摂津・河内・和泉三国の境界線だった事がわかります。和泉国は奈良時代初頭の霊亀二年(716年)に河内国から分離されて出来たものであり、国境を定める目立った山も川も無い中で百舌鳥古墳群の北辺にある田部井古墳は国境の目印として良かったのかもしれません。ここから西側にある阪神高速を超えると旧堺の街並みに入り、古代から中・近世に時代が変わります。

 













自治都市堺の街に入る前に行基が建てた家原寺(えはらじ)を訪れしました。季節柄、合格祈願の奉納布が沢山本堂に貼られてました。行基は畿内に49院のお寺を建てたそうで、こちらは知恵や学業成就で有名です。退職したおじさんは場違いかもしれませんが、歴史の森を彷徨う佳き指針を授けて頂ける様お祈り致しました。 



江戸期以前の紀州へ抜ける街道(旧熊野街道)沿いに大鳥大社があります。平清盛・重盛親子が熊野参詣に向かう途上、平治の乱が勃発(源義朝・藤原信頼が後白河上皇を幽閉)しました。その報に接するや大鳥大社に戦勝を祈願し、京に戻り平家の時代が始まりました。縁起もいいので、小生もお詣りして堺の街に入ります。 



南宗寺は三好長慶が父の元長の菩提を弔うべく建てたお寺です。堺が大阪夏の陣で豊臣方に燃やされた際に焼失し、その後住職となった沢庵和尚に再建されました。三好長慶や千利休一門のお墓が並び、江戸期は将軍家からの庇護も受けました。





大阪の陣後徳川の世も落ち着き、徳川秀忠・家光親子がこちらを訪れました。寺内に東照宮が祀られた為か、家康は夏の陣で後藤又兵衛の槍で殺されたとの伝説も生まれました。東照宮は堺空襲で焼けてしまいましたが、その跡に松下幸之助が家康の墓を建てたそうです。ご住職から丁寧な説明を頂きましたが、戦後松下が大阪でソケット販売に苦労してたのを助けてくれたのが旧水戸藩家老末裔の三木さんで、このご縁もあり「水戸黄門」のテレビ放映は松下電器のスポンサーで始まったとのこと。好きな番組だったので、是非再開をお願いしたいです。


因みに三木さんは三木城で秀吉に抵抗した別所長治の末裔で、水戸藩に仕える際に三木を名乗ったとのこと。秀吉は城主の自害と引き換えに城兵を救う事が多かったですね。備中高松城、鳥取城、忍城もそうだったでしょうか。




南宗寺内部は撮影禁止で寺域にはいくつか謂れある塔頭寺院もありますが何れも立ち入り禁止でした。丁度梅が見ごろで静謐な中、目を楽しませて頂きました。ここから北に、堺の街を歩いていきます。

 





大安寺の本堂は納屋助左衛門の邸宅を移築したものとのこと。中に入れず外から眺めましたが、黄金の日々の主人公呂宋助左衛門の家なのかとしばし見とれました。







信長や秀吉により自治都市の権限は徐々に奪われ、都市の防衛機能は奪われていきましたが町の一部には当時の遺構が残ります。一番広い環濠で幅15m、深さ4.5mの規模だったとのこと。因みに堀幅は名古屋城で25m、江戸城大手堀で48mですが、室町期の自治都市のものとしては異例の防衛設備だったのでしょう。




細川晴元と三好元長は足利義晴(12代将軍)の後継候補として弟の義維(よしつな)を担ぎ堺に拠点を置きましたが、その後仲違いをして元長は晴元に攻められ顕本寺で自害しました。義維は阿波に逃れ、その後息子の義栄(14代将軍)は将軍宣下を受けて短期間務めるも京には一度も入れず、この家系は江戸期平島公方と呼ばれ蜂須賀家から少禄をもらう身分になりました(別稿「阿波の足利将軍」ご参照)。

 


千利休邸跡には「椿の井戸」とそれを覆う屋形が有りました。利休自裁のきっかけとなった大徳寺金毛閣の資材を使っているとのこと。

 







旧紀州街道沿いに与謝野晶子生家跡が有ります。菓子商を営んでいたようです。

 








近所の覚応寺住職が鉄幹と晶子の仲を取り持ったとのこと。

 








流石“堺”というだけあって、摂津と和泉の国境の碑がありますが、堺の町自体もここで南北に行政区画が分かれていたようです。

 







ザビエル公園には様々な記念碑が建ってましたが、中世の海岸線沿いに石畳が設置されています。応仁の乱で兵庫港(大輪田泊、おおわだのとまり)の機能が低下したのに伴い、漁港だった堺は商業港として賑わいを増していきました。






堺が16世紀に全盛期を迎えた背景は、港湾機能に加え古墳時代以来の金属加工業のスキルや伝統が当地に根付いていた事も大きいようです。鉄砲鍛冶屋敷では幕府直轄地となった堺で安定した経営を続けた背景と鉄砲の製造について学ばせて頂きました。堺の今日の自転車・刃物製造業の原点です。




上述大阪夏の陣では豊臣方から徳川の兵站基地として嫌疑をかけられ町は全焼しましたが、元和年間に碁盤の目のような町割りが行われ今日に至ります。中世の自治都市の面影はなかなか見つかりませんが、1メートル程下に全焼した時の地層があるようで栄華を忍ぶ発掘物が出てくるようです。月蔵寺の土塀は当時焼け落ちた瓦をいれて造られています。



信長をはじめ歴代の天下人や有名武将が堺の定宿として使ったのが妙国寺でした。信長が義昭を担ぎ京に入るまで、長慶を中心とした三好四兄弟が天下を治める一番近い場所にいたとも言えますが、その中でも三好家の兵站とも言える阿波や四国を実質支配していた弟の実休により開基されました。当寺院の土蔵は堺空襲にも耐え、多くの歴史遺産が残されており是非見学をしたい場所です。 


大きな蘇鉄(樹齢1100年)で有名ですが、信長が一度安土城に移したところ気味の悪い声を出すとの理由で切り刻んで戻されたとのこと。観光で来た家康は小堀遠州の作庭した庭を楽しみましたが、本能寺の変が起こりここから“神君伊賀越え”の一大逃亡劇が始まります。堺から三河まで150kmを3日間で走破したそうです。ルートは諸説有り、昨年秋に訪れた山の辺の道にある長岳寺は、その時の潜伏地説の一つでした。 


堺の港湾機能は上記大和川の持ち込む土砂で低下しながらも、明治にはまだ機能していたようで明治十年(1877年)に灯台が建てられました。最古の木造様式灯台として国指定遺跡になっています。太古から近代まで日本の先進地帯として栄えた堺はやはり歴史好きの人間には垂涎の場所でした。今後古市古墳群も含めて理解を深めていきたいです。



今回堺東駅近辺で泊まり串揚げ屋で呑みましたが、串揚げに加えて土手焼き(牛筋煮込み)が美味しかったです。

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