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入間の桜 ~APR,2025~

  • 執筆者の写真: 羽場 広樹
    羽場 広樹
  • 4月11日
  • 読了時間: 4分

更新日:4月12日


入間市にあるゴルフクラブのメンバーになっており同市にはよく通ってますが、どういう地域なのかよく知らない事から花見かたがた散策してきました。桜は散り始めてますが、桜吹雪に当たりながらの散歩も気持ちいいですね。ビール片手にといきたいところですが、車で動いてますのでカフェラテ片手で歩きました。高倉寺は永禄年間(1558~1570)の開基であり、北条氏照が滝山城を拠点に武蔵国西側の支配領域を拡大し、上杉謙信と対峙していた時期になります。


入間市は鎌倉街道がほぼ南北に突き抜けており、新田義貞と次男義興の足跡が残ってます。新田義貞は太田荘生品神社で挙兵、出発した時は僅か150騎しかいませんでしたがその後越後の新田一族が加わり、利根川を渡る前で千寿王(足利義詮)も加わり20万騎を超える大軍に膨れ上がりました。義貞は熊野神社で戦勝祈願をしたところ、紀伊熊野大社の神の使いである烏(八咫烏)が降りてきたことから士気が上がり、その後の幕府軍との戦いに勝つことが出来たとの事。因みに私はゴルフ場で烏にボールを三個取られてますが、スコアで恩恵を受けた事は未だ有りません。


父義貞が越前で斃れた後、義興は苦戦を強いられ関東・越後・信濃で潜伏し機を窺いました。観応の擾乱で足利尊氏・直義兄弟が袂を分かち、その後尊氏が亡くなるのを見て終に義興は挙兵し鎌倉奪回を図りますが、関東公方足利基氏(尊氏次男)はこれを迎撃し、多摩川矢口の渡しで最後を迎えました。基氏は現入間市役所近くで7年も陣を張っていたらしいですが、義興主従(義興及び十三士)の首実験を行った後鎌倉に帰還しました。愛宕神社には首塚、十三士塚が社殿の前で祀られてます。


関東武士団の多くは桓武平氏、清和源氏、平将門を滅ぼした藤原秀郷を起源としていますが、中世では武蔵七党と呼ばれる同族武士団が割拠してました。入間域内を領有していたのが金子氏と加治氏になりますが、前者は桓武平氏(村山党)、後者は宣化天皇の末裔、多治比氏(丹党)を称しています。両氏は鎌倉御家人として安堵された後も、波乱万丈の南北朝・戦国期を生き伸びていきます。




金子家忠は頼朝挙兵時は平家方でしたがその後臣従し、平家追討戦で活躍しました。平家物語では屋島の戦いで、義経による寡兵での奇襲に参加しています。軍功が認められ、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際には有力御家人メンバーとして参加しました。入間市郊外にある大型墓地の片隅には彼の菩提と廃寺となった瑞泉院の跡があります。金子氏は秀吉の小田原攻めの際に北条側につき所領を失い、その後子孫は上杉家、長州藩に仕えたようです。


加治氏の加治は“鍛治”に通じているようで、丹党の丹も“水銀”を意味し、金属加工や窯業に秀でた一族で元々は河内国丹比郡から移動した様です。入間の丘陵部にある東金子窯跡群は8~9世紀の瓦製造の跡ですが、落雷で倒れた武蔵国分寺の七重塔再建で使われた記録も残り、加治氏の貢献が想像されます。加治家貞は鎌倉幕府滅亡時に北条氏と運命を共にしましたが、傍系の中山氏はその後逞しく存続しました。秀吉の小田原攻めでは当主の中山家範は北条氏照に従い八王子城で討死しましたが、その後子孫は徳川家に仕え、家範の二子はそれぞれ旗本(その後譜代大名)、水戸藩付家老(幕府から目付役として派遣された)として明治維新を迎えました。加治氏が創建した円照寺には、家貞を供養する板碑が残され重要文化財指定されています。 



将軍綱吉の時代、中山家から養子に出た老中黒田直邦(上野沼田藩主)は、飯能の多峯主山に墓を作りましたが墓碑銘に、「丹治真人」と入れました。飯能探索時の機会に見に行きたいと思います。

 









入間を含む狭山地方一帯は丘陵と入間川水系が造った河岸段丘が交互する地形ですが、ゴルフ場は平坦で周囲は茶畑が拡がってます。周囲の地層は最大10mにもなる関東ローム層が堆積し、水はけが良すぎて稲作には向いてないそうです。お陰様で大雨が降った後でもゴルフ場は水たまりを素早く吸収してくれますので、雨天中止の判断が難しいです。

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