光秀は京に向かった 丹波の入り口亀岡から園部へ ~ APR,2026 ~
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丹波亀山は、明治になり亀山という地名が全国で多くて紛らわしいとの理由で亀岡に変えられたそうです。山から岡に代わったくらいでたいした変更ではないかもしれませんが、丹波亀山城という響きで本能寺の変を連想してしまう戦国ファンの方には違和感は残ると思います。丹波の国は京都府と兵庫県に跨る横長の長方形で、亀岡は京の入り口にあたり京都駅から各駅停車で30分弱で着きます。

保津川下りの死亡事故が起きたのは丁度3年前になります。亀岡駅近くの渡船場から2時間くらいかけ嵐山の渡月橋近辺に向かうものですが、この急流を船で移動できるようにしたのは江戸初期に活躍した角倉了以でした。彼は人工運河の高瀬川も造り、瀬田川も整備し京を中心とした水運物流に多大な貢献をしました。因みに保津川は嵐山に入ると大堰川(おおいがわ)と呼ばれ、その後桂川となり鴨川と合流し淀川に流れこみます。

今回亀岡の訪問地を地図で確認していた際、古代由来の神社・寺院はすべて盆地を取り巻く高台に並んでいる事に気づきましたが、古代は大きな湖(丹波湖)が有ったようです。大きな盆地は南寄りの市街地を除き長閑な田園地帯が拡がってますが、田園の中にある五世紀の前方後円墳(千歳車塚古墳)が造られた頃にはそれ以南に湖は縮小していたのでしょう。近隣には古代から伝わる神社(出雲大神宮、愛宕神社)、寺院(丹波国分寺)が並びます。未だ遺構は見つかっていないようですが、丹波国府も近くに有ったと推定されています。

丹波なのに何故出雲大神宮が有るのだろうという疑問が沸いてきますが、社伝では出雲大社は当地から勧請されたことになってます。出雲大社は江戸期末までは杵築大社だったので、どちらが本家なのか混乱してしまいます。主祭神は国譲りの大国主命(おおくにぬしのみこと)と后の三穂津姫になりますが、三穂津姫は古事記・日本書紀で出てくる天地開闢の際に高天原に降りてきた高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘になります。出雲と大和の中継地にある丹波一之宮は、大和王権が出雲王国と和解し合体した記念碑なのかもしれません。

どちらが本家で出雲大社と揉めているのではと心配しましたが、四代前の出雲大社宮司千家尊福(せんげたかとみ)の書で神社名を記す石柱が建ってましたので安心しました。

今の宮司、84代千家国麿氏は高円宮典子女王と結婚されてますが未だ後継者はいらっしゃらない様です。ご本家(皇室)もそうですが、旧出雲王権の末裔も末永く残って頂ければと願います。さざれ石に書かれた君が代が胸に沁みます。

愛宕神社もこちらが元愛宕で、京都の愛宕神社はこちらから勧請されたようです。主祭神の一柱は軻遇突智神(カグツチ)、即ち母伊弉冉(イザナミ)の死因になった火の神様で防火の霊験があります。京都の愛宕神社を現在地(京都市右京区嵯峨愛宕町)に移したのは和気清麻呂だそうで以来都の防火祈願の聖地になったそうです。今回偶然ご本家詣でが出来ましたが、京都の愛宕神社も近々訪れたいと思います。

今の丹波国分寺は元々有った国分寺跡地に江戸中期に再興されたものです。無住の寺ですが、周囲は国分寺跡地として発掘が進められ全容が明らかになりつつあります。

敷地内には創建当時建てられた七重塔を支える17の礎石が残されており、往時の規模が偲べます。国府は国分寺から保津川を挟んで対岸に有ったと推定されており、上述古墳・神社・寺院も含め亀岡盆地北東部が古代丹波の中心地だったと思われます。

盆地全域を見晴らす千手寺に上りました。盆地全体を北から南まで(写真上左から右)見渡し、亀岡市街は右奥に見えました。丹波は急峻な山は少ないですがこうした山と盆地が連続した地形で構成され、信州や肥後と似て全域を統治するのが難しい場所だったと思われます。光秀はここで5年間兵を養い、1万5千の兵で本能寺に向かいました。

光秀挙兵の理由はこれまで多くの説が上げられてきましたが、小生は割とスタンダードな考え方で“将来の見通し”への不安が原因だったと想像しています。光秀は丹波平定と並行し長曾我部元親との交渉役を担い、来る四国平定の主役になるはずでしたが信長三男の信孝がこれを担う事となりました。普通に考えれば山陰路経由毛利攻めに加わり、秀吉の指揮下に入るシナリオが考えられたと思います。旧主の足利義昭は毛利の庇護下で備後鞆(とも)に居所を移し信長包囲網を仕掛けてましたが、場合によってはこれを討たねばなりません。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる本能寺の変はこれからですが、要潤が悩みぬく明智光秀をどう演ずるのか楽しみです。

谷性寺(こくしょうじ)の不動明王を光秀は強く信仰していたようで、当寺では光秀の首塚が置かれ毎年法要がされています。

初夏には明智家(土岐氏)家紋の桔梗が咲き乱れるそうです。

亀岡で反旗を掲げたのは光秀だけではありません。足利高氏は当初幕府軍を率い後醍醐天皇が画策する元弘の乱を鎮めるべく上京しましたが、亀岡で幕府に反旗をひるがし六波羅探題を攻め陥落させました。盆地の南端にある篠村八幡宮で願をかけましたが、八幡様(応神天皇)は戦いの神であり、源氏の守り神です。

高氏は柳の木に源氏の白旗をなびかせ兵を募り、全国の有力武将に幕府打倒の挙兵を催促しました。「旗立柳」(はたたてやなぎ)は神社脇の民家側に有り、柳の寿命は短いながら代々挿し木をしながらこれを伝えてきたと説明に書いてありました。高氏は後醍醐天皇(尊治)から頂いた一字をもらい尊氏と改名しましたが、蜜月期間は短くその後日本史は南北朝時代へと突入していきます。

盆地南部にも古い寺社が並んでいます。鍬山神社(くわやまじんじゃ)も丹波湖伝説が起源で、出雲大神宮同様大国主命と少彦名命(スクナビコナ、タカミムスヒの息子)が湿地帯を開墾し田畑に変えていった事を讃えています。京都盆地も奈良盆地もかつては湖だったわけで、ヤマト王権の萌芽や確立の過程で係る穀倉地帯への開拓事業は最重要の国造りだったことでしょう。

穴太寺(あのうじ)は奈良遷都前の慶雲二年(705)に大伴古麻呂(おおとものこまろ)が開創したとされます。大伴氏は古くから大和王権を支えた名族であり、旅人(たびと)や家持(やかもち)といった著名な万葉歌人を輩出した一族でした。古麻呂は家持の従弟であり、大伴氏はまだ一定の勢力を保ってましたが藤原氏の他氏排斥が進む中、ひ孫の善男が応天門の変で失脚し同氏は政治の表舞台から消えていきました。

お堂の中にはお釈迦様の涅槃像があり、なで仏として触らせて頂きました。最近ぎっくり腰を再発した為、念入りに腰を触らせて頂きました。

近所にある金剛寺は別名“応挙寺”とも呼ばれ円山応挙が幼い頃預けられたそうで、壮じて当寺に幾つか障壁画を残された様です。当時の和尚は少年応挙の才能を感じ、京都で絵画の勉強をさせたとの事です。天才を見出し、育てる環境は大事だと改めて思いました。

亀岡市を北上すると南丹市に入りますが、こちらは元園部町を中心とした自治体です。江戸期の亀山藩は譜代大名が何度も交替し、光秀以来の亀山城は山陰路から京に入る戦略的な城と位置付けられましたが、園部藩は外様の小出家が江戸期を通じて統治しました。一族に分知した所領を合わせても3万石弱の小藩であり、家格的には無城主格という城を持てない藩主でした。城主になるのは小出家の悲願でしたが明治新政府の許可が下り、園部城は明治維新の後、廃藩置県の前に出来た珍しい城となりました。完成して間もなく廃城となり、当城は民間払下げとなりましたが現在府立園部高校(および附属中学)が置かれ、お邪魔した日は入学式でした。

小出家が世に出たのは、豊臣秀吉の母親の妹の夫だった小出秀政が取り立てられたのがきっかけでしたが、関ヶ原の戦いと大阪の陣を何とか凌いで二家(主家出石藩、分家園部藩)が生き残りました。しかし出石藩主家は無嗣断絶により改易となり、明治維新で生き残ったのは園部藩主家のみでした。『豊臣兄弟!』では未だ出番は無いようですが、果たして登場するでしょうか。

園部も長閑な山間の田園風景が拡がる町でほのぼのとしますが、ここには最古の菅原道真公を祀る生身天満宮(いきみてんまんぐう)があります。何故最古なのかというと道真の経済基盤が当地に在り、生前から祀られていた場所とのこと。9世紀後半は律令体制の根幹が揺らぎ荘園制度が始まった時期であり、摂関政治へと繋がる藤原北家による朝廷権力や経済力の寡占化が進みました。対抗勢力だった道真がどう対応していたのか気になります。小出氏は生身天満宮が陣屋が見下ろす位置にあるのは恐れ多いとして今の場所に移したそうです。

木喰上人(もくじきしょうにん)は日本中を旅して全国に一木造の仏像を残しましたが、永らく千体を目標とされていたらしく、清源寺で89歳(1806年)の時に達成しました。こちらには5か月滞在されたそうです。

一方これより百年以上前の元禄期に亡くなられた円空は、12万体?彫ったと言われているらしく俄に信じがたいですが、旅の仏師としてこの両者はよく比較されます。個人的には円空のものが荒々しい削り方で、木喰さんのものは表面が滑らかで常ににこにこされている仏様という印象です。

白河天皇の第二皇子、覚行法親王(かくぎょうほっしんのう)の廟所がある九品寺(くほんじ)を訪れました。重文指定の大門をくぐり暫く階段を上りますが階段は苔むし、一部は外れて危険な状況でした。地方の寺院を歩いていると偶に廃寺寸前の廃墟に出くわしますが、特に由緒ある場所だと残念な気持ちになります。こちらは重文指定の門や宮内庁が管理する廟所もあり、このまま放置される事は無いのではと信じますがご住職の住居も人の気配が感じられない事から心配です。文化財の喪失は文化や歴史の喪失に繋がり、今後の日本人にとって大きなテーマの一つです。

摩氣神社(まけじんじゃ)を訪ね帰途につきました。檜皮葺(ひわだぶき)の屋根と横長の社殿は、あまり見かけない様式で当地独特の信仰を感じます。主祭神は大御饌津彦命(おおみけつひこのみこと)で水や食料の神様とのこと。上記出雲圏と大和圏の境界に位置する丹波は、特に神社の由来をしっかり理解しながら回りたいと考えています。伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)も、豊受大神社(福知山市)から遷されたと伝えられており謎が深まります。

亀岡周辺は丹波の入り口なので口丹波と言われます。次回より深く丹波を味わうべく、奥地に入っていこうと思います。当地は想定以上に光秀贔屓でしたが、残念ながら亀山城跡地は大本教の施設が置かれ、私有地であり見学は自由にできません。明治新政府の二大愚策は、実に廃仏毀釈と安価な城郭払い下げでありました。




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