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ついに四国のお遍路へ(一番~十番) 徳島 ~ APR,2026 ~

  • 12 時間前
  • 読了時間: 7分

昨年同時期に親族の結婚式で徳島を訪れた折、そろそろ八十八箇所霊場に着手したいと思いました。余りにも著名な巡礼地でもあり(車で回るにしても)ハードな行程だと感じてましたので、それなりに心の準備をしつつ再訪しました。四方見(よもみ)展望台からは四国と淡路島を結ぶ大鳴門橋、振り返ると鳴門から遠く徳島の市街地が見え、名前の通り360度絶景が楽しめます。


十年以上前に坂東三十三観音霊場を一年余りかけて回りました。当時は未だ多忙な現役部長だったので、ゴルフの無い土日を利用しながら数回に分けて訪れました。“結願(けちがん)”の印を頂いた達成感も有り、那古観音から眺めた安房館山の海は格別美しく感じられました。





徳島(阿波)と館山(安房)は古代密接に繋がっていたと言われており、阿波を拠点とした忌部氏(いんべし)は黒潮に乗り房総半島に上陸し開発を進めたと考えられてます。阿波一の宮である大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)と、安房一の宮である安房神社は共通の主祭神(天太玉命 - あめのふとだまのみこと)を頂きます。忌部氏は麻布・木綿の製造に秀でていたらしく神社の名前にも“麻”が入ってますが、房総半島の“総(ふさ)”は“麻(あさ)”と同義であり両地方の因縁を感じます。


こちらでは第一次大戦時に捕虜となった千名弱のドイツ兵が預けられましたが、比較的寛容な収容所だったらしく地域住民と様々な文化交流がなされたようです。その感謝の意もあり、地元にアーチ形の石橋を架けてくれたものが残ります。





承久の乱の戦後処理で鎌倉幕府は首謀した後鳥羽上皇を隠岐に流したのに加え、二人の後継者もそれぞれ佐渡(順徳上皇)、土佐(土御門上皇)への遠流としました。この内、土御門上皇は後鳥羽上皇の挙兵に反対していた事からその後より京に近い阿波に移され、現地で崩御されました。阿波神社は土御門帝火葬地に戦前建てられたものですが、昨年佐渡を訪れた機会に順徳天皇陵を詣でた記憶も新しく、感慨深いものになりました。 


承久の乱は武家政権が政治の主導権を握ったという意義だけではなく、皇統がその結果二転三転し後の南北朝時代への伏線となります。後鳥羽上皇は順徳上皇の皇子を仲恭天皇として即位させていましたが、幕府はこれを廃し、後鳥羽上皇の同母弟である守貞親王の皇子を即位(後堀河天皇)させました。後堀河天皇は息子(四条天皇)に譲位しましたが、御所で悪戯の最中に頭をぶつけ僅か満十歳で亡くなりました。後鳥羽上皇の子孫に皇位を継がせたくない幕府は後継選定に悩みましたが、上述挙兵に反対した土御門上皇の皇子である後嵯峨天皇を即位させました。この後嵯峨帝こそ皇子二人に帝位を継がせ、その後両方の皇統(持明院統と大覚寺統)が迭立(交互に即位)する事となり、鎌倉幕府の滅亡と南北朝時代の争乱への遠因を作ってしまいました。 


室町時代に入り地方自治の権限主体が幕府から任免された守護に移り、阿波は隣国の讃岐や淡路、和泉や紀伊といった国々と共に管領を務めた細川家に支配されました。勝瑞城(しょうずいじょう)は細川氏により置かれた守護所が起源ですが、その後守護代の三好氏が細川氏を凌駕し主となり、京を含めた畿内支配の経済拠点の中心地となりました。 



城跡には三好家菩提寺である見性寺が小さな堀に囲まれ、歴代の墓が隣接し当時の名残を幾分か残してます。平成六年度から始まった館跡の発掘を通じて、大きな堀跡を含め館群の全容が明らかになりつつあります。室町時代の城跡が平地で見られるのは珍しい事とは思いますが、幾つもの大きな川筋が蛇行する吉野川の自然の防御力や細川・三好家の政治的威光や軍事優位性が齎したものかなと感じました。

 


武田家を滅ぼした織田信長は三男信孝を総大将として四国攻めを命じましたが間もなく本能寺の変が起こり一旦休止状態となりました。長曾我部元親はこの機を逃さず、四国統一に向けて阿波を北上し、勝瑞城に籠る三好一族の十河存保を攻略し讃岐へと向かいました。想定を上回る速さで進む豊臣秀吉の天下統一事業の下、元親の四国経営は2~3年で終わりをつげ再び土佐一国に押し込められる事になります。たらればですが秀吉がもし柴田勝家や徳川家康とのポスト本能寺に於ける勢力争いに手こずっていた場合、元親・信親親子コンビは群雄割拠の一翼としてかなりのプレゼンスを見せていたことでしょう。 


こうした吉野川扇状地の上辺部から西へ、四国霊場の旅は始まります。四国霊場の定義は室町時代頃から始まるようですが、札所が確定し巡礼ルートが固まったのは江戸期になってからになります。今回は第一番の霊山寺から第十番の切幡寺までまわりました。八十八箇所に加えて空海の足跡が伝えられている二十のお寺が戦後集まり、四国別格二十霊場が創設されましたがその一番(大山寺)も詣でてきました。最終的には88+20=108ヵ寺というかなりの訪問先になりますが、煩悩と同じ数であり一つずつ丁寧に消していきたいと思います。 


霊山寺に入る前に、白衣・輪袈裟・数珠を買いました。今回巡る10+1寺は比較的短い間隔で並んでおり、順調な滑り出しと感じるかもしれません。第一番という事もあり全体的に華やかで、平日にも関わらずそこそこ人混みが有りました。太子堂は改修中のようです。





第二番極楽寺の長命杉は樹齢1200年。空海お手植えと言われても違和感ありません。

 








第三番金泉寺には弁慶が投げたという力石があります。一の谷の戦いの後、平家の惣領宗盛は優位な海軍力を頼み屋島に陣を置きます。義経は阿波に上陸し、讃岐に進軍する前に当地で戦勝祈願をしたとのこと。

 





第四番大日寺、第五番地蔵寺と讃岐山地の山腹に入り、やや山歩きの世界に入ります。

 








地蔵寺には安永四年(1775年)に建てられた奥の院(五百羅漢堂)が有り、高さ12mの釈迦如来像と多くの立ち並ぶ羅漢像を拝むことができます。

 






ここから本来は平地に戻り第六番安楽寺に向かうところですが、深い山の中にある別格一番大山寺に向かいました。急峻な山道でFFの小型車レンタカーは常にエンジンがフル稼働しており雨が降っていればスリップしそうです。日本全国山中のお寺は訪れる度に「よくぞここにお寺を建てた」と感心する事が多いですが、こちらも典型です。北海道からキャンピングカーで来ていた老夫婦は大きな車体を途中で停めざるを得ず、歩いて山上に辿り着き疲れた様子でしたが達成感も有り嬉しそうでした。 


別格霊場の特典は二十寺でそれぞれ一個の珠を頂き、結願するとそれらで数珠を造る事ができる事です。仕上がりを楽しみにこつこつ頑張る事にします。








第六番安楽寺は山上から反転、麓まで一気に下ります。

 

 







第七番十楽寺に向かう途上で、丸山古墳(円墳、5世紀)を見つけてしばし見とれました。山間地が多い阿波は古くから粟(あわ)の生産地で、吉野川流域は粟国造(あわのくにのみやつこ)の支配領域だったようです。

 





第八番熊谷寺、第九番法輪寺と吉野川を遡りながら山腹エリアを西上します。


 







熊谷寺の多宝塔は安永四年(1774年)建立で、四国最大・最古のものとのこと。

 

 



















第十番切幡寺に向かうと雰囲気が変わり、山間の道を再び上ります。山門脇の駐車場から参道に向かい333段の階段を上ると本堂境内に辿り着けるようですが、同行する家人は難色を示しそうです。奥に急斜面ながら車が登れそうな道が見えたので、勘を頼りに進むと境内のそばに駐車場がありほっとしました。




本堂から更に見上げたところに美しい大塔(二重塔)が聳えてます。関ヶ原の戦いの後、徳川家康は豊臣家の財力を削ごうとし秀頼にしきりに神社仏閣の建設や補修を勧めました。住吉大社の神宮寺に建てた塔もその一つで、明治に入り廃仏毀釈でこの神宮寺が廃された後にこちらに移築されたもので重文指定されてます。当時のご住職の慧眼に感謝です。



お遍路のルートはここから吉野川を渡り、以後東に向かい徳島市内から南に下っていきます。平野部が比較的多い徳島県内のルートは相対的にはスムーズに見えますが、今後難所も幾つか想定されてますので作戦を十分練って四国を楽しむ準備をしたいと思います。お遍路は歩くのが正統でしょうが、車を使う場合でも十ヵ所回っただけで坂道含め1万歩は軽く超えます。いつかは行こうと思ってましたが、足腰がしっかりしているうちに行くべきですね。



大麻比古神社の楠も樹齢千年以上になりますが、青々とした緑に圧倒されました。足が疲れたとか腰が痛いとか言ってられません。

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