飛騨高山 ~APR,2025~
- 羽場 広樹
- 4月19日
- 読了時間: 5分

昨年は古川の宿を取り桜を楽しみましたが既に散り始めていた事もあり、今年はやや早く高山で宿を取りました。今回は飛騨三大桜と称される『西光寺の枝垂桜』『荘川桜』『飛騨一宮の臥龍桜』を拝むべく気合を入れてました。平湯峠(標高千四百メートル)を越える際に小雪が舞う程寒かったので嫌な予感はしてたのですが、今年は例年より1-2週間開花が遅れているようです。それでも街中の桜は咲き始めており、街歩きをしながら花見を楽しめました。高
山市内は本流の宮川を含め飛騨山地の清流が集まり、水路が張り巡らされているせいか至る処から水が流れる音が聞こえます。

元々国府は市内北方の国府町に有ったようですが、場所は未だ特定されていません。一国三郡の小さな国でしたが、木材・鉱物資源は豊富であり、平安京の建設でも多くの木材供給が為され、大工が派遣された様です。室町~戦国期には、国司として着任し土着した姉小路氏、鎌倉幕府に派遣された江馬氏、足利将軍家から派遣された内ヶ島氏、そして守護京極氏の被官として現地に勢力を張った三木氏が割拠しました。昨年は北部を拠点とした江馬氏館を訪れましたが、今年は天正十三年(1585年)の大地震で山が崩落し、城も町も一瞬で埋もれてしまった内ヶ島氏の帰雲城を先ず訪れました。庄川上流域の白川郷を四代、百二十年治めていました。

南の下呂を中心に勢力を伸ばした三木氏は古川で勢力を張る姉小路家と連携し飛騨の統一を目指しました。姉小路家は藤原氏小一条流の系統で、ご先祖には三条天皇の寵を受け藤原道長に嫌がらせをされていた藤原通任がいます。

この家は建武の新政で飛騨国司に任じられましたが、その後当地で三家に分かれ弱体化していきました。その中の小島(姉小路)家は勢力を伸ばす三木氏から養子を取り、姉小路家と三木氏は同化した事を朝廷に認めさせ、三木氏は姉小路を名乗りました。三木姉小路氏は晴れて本拠地を松倉城(高山市)に移しましたが、標高860メートルの堅城で山頂から高山盆地を一望できます。

飛騨統一は三木&姉小路家で果たされましが、その6年後豊臣秀吉は金森長近に飛騨征服を命じ松倉城は落城しました。金森氏は高山城を築き、以後6代百年に渡り高山は金森氏の城下町となりました。この町が天領になるのは元禄五年(1692年)、綱吉の側用人を務めていた頼旹が失脚し、出羽上山藩に転封となった後になります。

高山城は破却され、城址の麓に代官所である高山陣屋が置かれて以後25人の代官が赴任しました。インバウンド効果で、平日にも関わらず外人観光客でいっぱいです。飛騨国の石高は金森氏入封時で33千石、幕末で56千石でしたが、代官所屋敷の風格は十万石以上の大名級のそれに匹敵します。歴代代官の中では大原親子は悪政で有名であり、特に息子の正純は度重なる一揆と陳情が重なり終に老中松平定信に諮られ、八丈島に流されました。苛斂誅求もそうですが、良質な木材資源の枯渇や木材輸送費の不採算により木材伐採禁止令を出した事で、木材事業で生計を立てていた領民は大きく反発しました。

高山の町割りをしたのは金森長近と二代藩主可重になりますが、盆地の縁沿いに多くの寺院が並んでおり、それらを繋ぐ様に東山遊歩道が整備されてます。遊歩道の入口の階段を上ると、雲龍寺鐘楼門が見えてきます。長近は嫡子を本能寺の変で失い、雲龍寺に菩提を置き高山城の門を移築しました。

隠居後伏見で亡くなった長近の菩提は素玄寺に有りましたが、その後京の大徳寺塔頭に改葬された為、殉死した家臣の墓と共に供養塔が置かれています。興味深いのは、上述大原騒動を引き起こした代官大原紹正の墓がその背後にありました。ぱっと見た感じではわかりづらいですが、何度も引き倒されたらしく破損しているようです。

法華寺には加藤清正の嫡孫である光正の菩提が置かれています。清正の後肥後54万石を継いだ忠広は寛永九年(1632年)に改易となり、光正は金森家に預けられました。彼は翌年自刃したとも病死したとも言われてますが、3代藩主金森重頼は加藤家宗旨の法華宗の寺院を光正の霊を弔う為に建立しました。金森氏は上述出羽上山藩への転封後、間もなく郡上藩に再度転封となりましたが、金森氏自身も宝暦八年(1758年)に改易となりました。

江戸無血開城の立役者の一人であり、明治政府でも活躍した山岡鉄舟の像が高山陣屋に立ってます。彼は父親(小野高福)の飛騨郡代赴任に同行し、少年時代を高山で過ごした後、江戸に戻り山岡家の養子となりました。宗猷寺には両親の墓が見晴らしの良いシダレ桜の下に置かれてます。墓石の法号は鉄舟の筆跡だそうです。

空振りに終わった飛騨一宮の臥龍桜ですが、隣の木は早く開花し略七分咲でした。木の麓には小さな祠があり三木姉小路氏当主の娘婿である三木国綱が祀られてます。彼は金森長近に松倉城を落とされ隠棲した後、再起を図るも討たれましたが天下統一を急ぐ秀吉と配下の金森長近に飛騨国衆の最後の意地を見せました。

飛騨は4世紀後半から大和朝廷の影響下に入りましたが、日本書紀では仁徳天皇治世下で両面宿儺(りょうめんすくな)の反乱が記されてます。鬼神なのか豪族なのかわかりませんが、千光寺を開山したと言われてます。

17世紀後半に円空は当寺に滞在し、多くの仏と共に両面宿儺を彫り上げました。

飛騨の人口は幕末で9万4千人、現在14万人弱。幕末と現在の人口比は能登と似てます。高山市は日本で一番広い市町村で2,200km2あり、略東京都と同じ面積ですが、そこに8万人が住んでます。地方に素晴らしい文化遺産が残っているのは、都市化や一極集中を横目で見ながら営々と歴史や伝統を守ってきた人々の叡智の賜だと思います。
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