ヤマトの北限 秋田 ~MAY,2026~
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秋田市郊外にある大森山展望台は僅か標高124mの低山の頂に有りますが、北は男鹿半島から秋田市内を一望できます。南方向には遥か雪を頂く鳥海山を臨み、大パノラマを楽しめますがそれだけ雄物川が開いた沖積平野が広いという事でしょう。

関ヶ原の戦いの後に秋田への転封を命ぜられた佐竹義宣は、京から水戸に寄らず直接新任地に向かいました。明らかな左遷で不本意だったと思いますが、湯沢の峠を越えて肥沃な土地を見て“ご機嫌が治った”事から御機嫌坂と名付けられたそうです。

日本書紀では崇神天皇が四人の皇族を将軍に任じ、東海・西海・高志(越)・丹波を征服させたとあり、この内北陸道に兵を進めたのが大彦命(おおひこのみこと)で崇神帝の伯父にあたります。以来ヤマト朝廷は奈良時代まで北への領土拡大を目指し天平五年(733年)に秋田城を築きました。

近くの古四王神社には武甕槌神(タケミカヅチ)と大彦命が祀られてます。前者は国譲りの直談判をし神武東征にも貢献した鹿島神宮の主祭神、後者は実際には新潟県北部くらいまでは来たと思われる日本海側征服のヒーローです。社伝では当社は7世紀に日本海側を北上し蝦夷を服属させた阿倍比羅夫が建てたとあります。

奈良時代の東北地方はフロンティアとして北に領土を拡大する最前線の地でしたが、平安時代に入り東北の経綸は縮小均衡の時代となりました。出羽の国府は当初秋田城に置かれていたものの庄内の城輪柵に移され、十世紀半ばには廃棄されたようです。政策転換に伴い朝廷は国軍を殆ど持ちませんでしたが、島国でないと出来なかった事でしょう(故に刀伊の入寇ではかなり慌てました)。

新羅三郎義光の後裔である佐竹氏が秋田の藩主となったのには因縁を感じます。義光は前九年・後三年の役で活躍した義家の同腹の弟であり、義家に合流し横手に有った金沢柵で清原氏を滅ぼしました。

奇しくも奥羽山脈を越えた盛岡藩南部氏も義光流になります。義光の息子は嫡流が佐竹を称し、弟は甲斐源氏として武田や小笠原、南部に分岐し明治維新まで門地を伝えました。義家の末裔は源頼朝、足利尊氏、徳川家康(真偽はともかく)と三度天下を治め、義光の末裔はそれらを支えた名脇役を演じてきました。

佐竹義宣は入部当初、前任の秋田氏の居城だった湊城に入りましたが手狭だった為、すぐに久保田城の築城に取り掛かりました。石垣を殆ど使わず、土塁と堀で固めた城で天守閣も置きませんでした。水戸城と同じ、佐竹の流儀なのでしょう。或いは徳川家への配慮や収入減(54万石→20万石)に伴う節約も有ったのかもしれませんが、平安から戦国を生き抜いてきたバランス感覚や虚飾に拘らない余裕の様なものを感じます。

二の丸そばには平田篤胤を祀る彌高神社があります。神社の石標は侯爵佐竹義春の書でした。奥羽越列藩同盟を早期に脱退し新政府軍に付いた佐竹公は侯爵に列した一方、盟主だった伊達家は減封(62→28万石)され後に伯爵、最後まで抵抗した会津松平家は大幅な減封(28→3万石)の後に子爵に甘んじました。明治維新期の信賞必罰は、ときに悲劇や地域間の不公平を作り出しました。

平田篤胤の墓は秋田大学のある市の北東部、手形山公園の近くにあります。側には同大学の鉱業博物館があり、エネルギーの仕事をしていた関係で以前から機会が有れば来ようと思ってました。秋田は鉱物資源が豊富で日本有数の油田も有り、同大学の看板学部は鉱山学部だった筈ですが、国際資源学部という名称になってました。かなりの数の岩石・鉱物のコレクションがあり、地学好きな方は必見です。

おおよそ生物は進化の過程で巨大化していく傾向が有るようです。絶滅前の白亜紀のアンモナイトには直径2メートルくらいのものもあり、以前カナダで見た1メートルくらいのものは200万円で売られてました。金額以前に家に持ち帰るのを憚られますが、10センチくらいならお土産で手軽に買えたので幾つか持ってます。

近辺は熊の出没が多いらしく、近くにある筈の篤胤の墓には二の足を踏んでしまいました。

佐竹家の菩提寺である天徳寺を訪れました。丁度重文指定の本堂書院が工事中で中には入れませんが、遠くから眺めさせて頂きました。こちらには藩主一門の御霊屋も整然と置かれており風格が感じられます。全国を回っているとこうした旧藩主家所縁の寺院を訪れる事が多いですが、廃仏毀釈で廃寺になっていたりそもそも経済基盤が失われ荒れ果てているケースも少なく無いです。格式高い寺院で敷居は高いですが、ちゃんと整備されているのを見るとほっとします。

近くには歴代藩主の別邸だった如斯亭(じょしてい)が有りました。大名庭園というと広大で豪華なイメージ有りますが、簡素な中に一つの世界が有ります。躑躅も見ごろで縁側から楽しませて頂きました。

太平山三吉神社は坂上田村麻呂が戦勝祈念をしました。本堂は秋田市内とはいえ標高1171メートルの太平山頂上にあり、夏の二か月間だけ登拝できるそうです。

田村麻呂が来て千年を経て、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督九条道孝卿が詣でられたとのこと。下名は世界平和を祈念し、夜は厳かに“太平山”の名を冠した銘酒を美味しく頂きました。

久保田城の西南方向の一角には佐竹氏が城下町の造成で集めた寺院群が並び、散策するにはいい風情です。中には佐竹氏転封に伴い常陸から移ってきた寺院も多く鱗勝院もその一つで、明治に入り火災の被害を受けた際に久保田城の裏門を拝領し山門としました。

光明寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼が建てたとされますが、こうした時頼由来の寺院は全国に存在します。時頼は水戸光圀公の様な“諸国漫遊”伝説が有り、実態は不明です。少なくとも執権時代に造立した建長寺と、出家時に造った最明寺(現明月院)は時頼が建立しました。承久の乱後東北地域の地頭・守護は多くが北条一族が占める事態となってましたので、東北全域で北条氏の影響が大きかったのは間違い無いでしょう。

さて上述佐竹氏の入部時、豊臣秀吉に安堵され秋田県北部を領地としていたのは秋田氏ですが、秀吉に臣従するまでは安東氏を名乗っていました。中世の奥州北部を代表する有力豪族で、北海道の檜山・津軽十三湊・男鹿半島・土崎湊(秋田湊)を拠点とし日本海・蝦夷交易で強い財政基盤を持っていましたが、最終的には戦国大名として当地に割拠しました。前九年の役で滅んだ安倍氏の末裔を自任していましたが、皮肉な事に再度源氏に追い出された事になります。

秋田氏は常陸宍戸に移された後に、桜の美しい三春に転封となり明治維新を迎えました。戦国期安東氏居城の脇本城は男鹿半島の付け根にあり、続百名城に指定されています。城跡から秋田沖の風車群が見えました。

昨年夏は芭蕉の足跡を追いながら象潟から鳥海山を観つつ酒田・鶴岡へと動きました。流動性の乏しい江戸時代ですが旅人の足跡は他にもあります。菅江真澄は故郷の三河を出て出羽・陸奥・蝦夷地を漂白しましたが、中年を超えて久保田藩に落ち着き、多くの旅行記を残し当時の習俗を今日に伝えました。芭蕉より一世紀以上時代は下りますが彼も象潟地震(1804年)の前に象潟を訪れています。

平城京の朝廷は秋田城建設に際し、他国から相当数の移民(柵子~さくこ)を送り込んだそうですが当初は未だフロンティアとして農業・軍事面での人的資源は少なかったのでしょう。重文指定されている江戸期の豪農邸宅(旧奈良家)に立ち寄りましたが、当家は弘治年間(1555~1558年)に大和から移住し大成功したようです。戦国時代にこうした遠距離移住が有ったのかと驚かされます。平野部の広い久保田藩領は開墾余力も大きかったのか、藩の表高は20万石余りなのに対し幕末には実収は50万石あり、佐竹家は江戸時代260年をかけて関ヶ原以前の領地を取り戻したと言えるでしょう。

秋田県の人口は明治初期に63万人で現在87万人、東北で最も人口減が進む過疎地域であり早晩人口は江戸期に戻りそうです。美しい広大な穀倉地帯はまだまだ可能性があり、これほど美味しい酒と食べ物が有るのにもったいないことですね(地方に行くといつも同じ感想になります)。




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