越中の古代史(前方後方墳と万葉の里) ~AUG,2025~
- 羽場 広樹

- 8月4日
- 読了時間: 5分
更新日:8月7日

古代の越中国府は今の富山県西部、高岡市伏木に在りました。近くには雨晴海岸があり、地理的には富山湾の西側に寄っている為能登半島が近くに見え、富山湾と立山連峰の眺望が有名です。

大和朝廷は律令体制の整備の過程で“越(古志)”のくにを3つに分け(越前・越中・越後)ましたが、国境については紆余曲折有り、奈良時代の前半は越前から切り離された能登国を併合し越中国としていました。高岡市伏木の地は能登も含めた“大きな越中国”の国府としては落ち着きが良かったことでしょう。大伴家持は生涯様々な地域の地方官として赴任しましたが、越中は最初の赴任地でした。サラリーマン的に言うと最初の転勤地であり、張り切って職務に勤しみ、想い出に残った場所ではないかと想像されます。国司として国内を巡回し、5年余りの在任期間の中で各地の名勝をめでる多くの歌を残しました。高岡市万葉歴史館では家持の足跡が取り纏められてます。

十年前に北陸新幹線は金沢駅迄延伸され、東京とは2時間半で結ばれ多くの観光客が訪れています。金沢の知名度は江戸期に加賀百万石の城下町だった事に起因しますが、歴史は比較的新しく、加賀一向一揆の拠点だった尾山御坊(金沢城)が造られた16世紀半ばから始まりました。又、加賀国は平安時代に入り遅れて越前国から分離された(823年)新しい国です。越中(富山県)は不幸なことに室町期・江戸期を通じて分割統治を受けてきました。室町時代、能登七尾城を本拠とする守護畠山氏は遊佐・神保・椎名氏の守護代三氏に越中を治めさせ、戦国期には一向一揆や上杉・武田・織田の抗争地となりました。

江戸時代には加賀藩前田家が能登・加賀・越中三国を統治しますが、前田利常は将軍秀忠の娘珠姫との間に出来た3人の息子の内、長兄光高を加賀藩主後継とした上で、次兄利次に富山藩十万石、三男利治に大聖寺藩七万石(後十万石に石直し)を分治しました。富山藩領は現在の富山市域に当たり神通川・常願寺川流域の沃野を占めてますが、加賀藩領に挟まれていました。呉羽山は旧加賀藩と富山藩の境界を象徴し、その東西で呉東・呉西と呼ばれ気質や文化の差が指摘される事もまだ有りますが、こうした中世から近世に跨る五百年の統治環境の違いが一因になっていると思われます。個人的には(私は金沢の人間ではありますが)越中古代史の方にロマンを感じてます。

越中国府は現在国宝に指定された勝興寺の地にありました。佐々成政が一向宗門徒を懐柔すべく、古国府と呼ばれる地を提供しましたが、彼はこの後秀吉により地侍の抵抗が激しかった肥後に移され、統治に失敗し自害します。

越中一宮は気多神社です。能登(羽咋市)の気多大社から勧請され、能登国分離後一宮となりました。気多大社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)であり、国譲りの大国主命と同じ神様です。こちらでは越(高志)の国で求婚した沼河比売(ぬなかわひめ)も祀られていますが、この間に出来た建御名方神(たけみなかた)はその後越後、信濃へと動き、諏訪大社の神となりました。

気多神社は越中国総社でもあったようです。国司は赴任すると国内の神社をすべてお詣りする義務がありましたが、総社はこれらをすべて纏めて一か所でお詣りできるよう置かれました。武蔵国では国府(府中市)そばにある大國魂神社が総社になります。

境内からは小矢部川の河口、伏木の港が見えます。古代から風景はそれほど変わっていないのかもしれません。日本海側を結ぶ北前船の寄港地でもあり、能登半島を超えて立ち寄るポイントとして最適地だったのでしょう。

近辺は大型の前方後方墳が幾つか発見されています。前方後方墳となると三~四世紀前半という時代に比定され、特に中国史に日本が登場しない謎の四世紀に至る時代の情報が隠れています。氷見にある柳田布尾山古墳は全長100mを超える日本海側最大の前方後方墳で平成十年に発見されました。二つの方形が繋がる陵墓の延長には二上山が佇みます。家持は二上山を讃える長歌を残し、当山を神の棲む山として讃えました。家持が赴任していた時代は古墳が出来た時代から四百年以上の時間が経っており、古墳の存在や神が住む謂れのようなものを彼はどこまで知っていたでしょうか。

日本書紀では崇神天皇の代、四道将軍が派遣されたと書かれており、北陸に送られた大彦命(おおひこのみこと、孝元天皇第一皇子)は途上鵜坂神社を創祀したと社伝は伝えています。この征服事業で主要な敵対勢力は一掃され、結果として前方後方墳の造墓が無くなったとすると四世紀後半にヤマト王権による統一が為されたと想像できます。

大彦命は埼玉県稲荷山古墳で出土した鉄剣銘にある雄略天皇の臣ヲワケの七代前の祖先、オホヒコと比定されています。鉄剣に記された年は471年であり、一代20年とすれば140年前にオホヒコがいたと推定されますが、この四世紀にいたオホヒコが四道将軍の一人として前方後方墳を造っていた出雲-日本海政権の王を滅ぼしたと考えると辻褄が合う気がします。

8世紀の家持は在任中に宇佐八幡宮を勧請し、放生津八幡宮を建てました。八幡さまは、応神天皇を祀る神社になります。彼は四世紀に滅んだ王権が敬った二上山に敬意を表し、ヤマトに恭順した大国主命(気多神社)に加えて応神天皇を祀る八幡宮を祀り、地域と国の安定を祈りました。

古代出雲~越~信濃の繋がり、ヤマト王権と対立した古代王権の残照をところどころ見つけながらのんびり進める旅はいいものですね。呉羽山の丘陵中腹にある王塚古墳も全長60m弱の前方後方墳で四世紀初頭と推定されてます。そばに名門呉羽カントリークラブの入口を見つけ、改めて古墳群のそばに造られたゴルフ場なのだと認識しました。過去何度かplayした経験ありますが、若い頃はボールもよく飛んで左右に散ってましたので古墳に知らずに打ち込んでいたかもしれません。次回機会あれば、フェアウエイキープで頑張ります。





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