和人の蝦夷支配 松前 ~AUG, 2025~
- 羽場 広樹

- 8月10日
- 読了時間: 5分

蝦夷地(北海道)唯一の幕藩体制下の大名である松前氏は、元々蠣崎氏と名乗っていましたが豊臣秀吉が亡くなり、いち早く徳川家康に臣従を誓い松前に改姓しました。アイヌ語由来とも松平と前田から取ったとも言われてますが、辺境の地に在りながら政変期における判断力は正しく、戊辰戦争に於いても当初奥羽越列藩同盟に属したもののこれを裏切り官軍に付きました。

NHK大河ドラマ「べらぼう」では、蝦夷アイヌとの独占交易で稼ぐ松前道広をえなりかずきが怪演してます。松前家は一万石格の大名でしたが、領内では米が取れずアイヌの交易権が主たる収入であり、家臣には特定地点の交易権を扶持として渡していました。

ちなみに道広の弟広年を芸人のひょうろくが演じました。狡猾な道広に対し世間知らずで間抜けな広年のコントラストは面白く、吉原を舞台に松前藩の収益源を突き止め、田沼親子の蝦夷開発計画が進められていきました。実態としては幕府直轄に伴う幕府権益の増加に加え、清朝やロシアの領土拡張に対抗するべく国防上の重要性が高まっていた事が背景としてあります。

広年は実は松前藩家老であると共に蠣崎波響(かきざきはきょう)と称した著名な画家で、多くのアイヌ酋長の画を残しています。

法源寺にお墓が有りますが、藩主弟の家老職の墓としては小さく地味なものです。

法幢寺は松前家菩提寺として歴代藩主の墓が並んでますが、位牌を収める御霊屋の天井には波響の絵が飾られているそうでう。

奥羽地方は永らく蝦夷の地として国外でしたが、坂上田村麻呂以降徐々に征服が進みます。前九年の役や後三年の役、奥州藤原氏の繁栄や滅亡を経て鎌倉期には奥州北部に北条氏の被官が送られ領国経営が進められ、源頼義と戦った安倍氏の末裔である安東氏は十三湊や秋田に盤踞しました。

和人勢力が統治者として道南に上陸したのは15世紀、安倍氏とその臣下が津軽海峡沿いに城館を築き本格化したようです。蠣崎氏はその中で安東氏より上ノ国に派遣された領主であり、客将である武田信広は婿養子として入り蠣崎を名乗りました。松前氏はこの武田信広を祖としています。

信広は南部氏出身とも、若狭武田氏出身とも言われているようですが、松前城にあった説明では若狭武田氏からの系図が置かれてました。どちらにしても甲斐源氏由来なので大きな差はありません。松前城内には武田信広を祀る松前神社があります。

蠣崎信広はアイヌとの戦闘(コシャマインの戦い)で勝利し、勝山館を築きました。79年から始まった発掘調査で膨大な遺構・遺物が見つかり、中世の一大政治・軍事・交易拠点であった事が判明し“続百名城”として指定されています。ガイダンス設備も置かれ、鳥居が置かれた山上までは容易に登る事が出来ました。

秀吉の天下統一の結果、永らく貧窮を極めていた朝廷や公家は一定の収入を取り戻し、重要な有職故実(ゆうそくこじつ)を再開させました。一方で過去の苦労を知らない一部若手公家達と女官達により朝廷の風紀は乱れ、猪熊事件として明るみになりました。首謀者の一人だった花山院忠長は時の天皇(後陽成天皇)の寵愛深い女官と逢瀬を重ねていた為、流刑として松前藩に預けられました。

その時の対応が丁寧だった為、京の公家社会からの信任も得たようで、初代藩主慶広は孫の後継者公広の正室を大炊御門家から迎え、その後も江戸期を通じて度々公家から室を迎えました。江戸や京に対して家格をどう上げていくのか、藩にとっては重要なテーマだったようで、蝦夷地固有の交易権は上げ地の執行と共に喪失していきましたが、幕末になり漸く3万石の格式を得て本土に米が取れる領地を持ち(福島県伊達市梁川)、海防強化を名目に幕府から城を持つ資格を得ました。十代藩主松前崇広は外国語や兵学に堪能で、嘉永二年(1849)に家督相続後、幕府の重要ポストを歴任し老中となりますが時既に遅く、尊王攘夷の政争の中失脚し病没しました。写真からはなかなかの美丈夫だった事がわかります。

アイヌの文化や歴史を知ろうとするならば、登別に近い白老町にあるウポポイという施設がいいです。5年前に開園したもので、中に国立アイヌ民族博物館があり一通り歴史や風俗を学ぶ事ができます。

地図上では近くに見えますが、松前と函館は百kmくらいの距離があります。北海道は車で移動するのは便利なのですが、予め調べておかないと道路標識で距離を見て愕然とする事が多いです。国定公園に指定されている大沼のホテルでのんびりしましたが、朝食を食べながら大沼を回遊するというオプションが有り、晴れていたお陰で満喫できました。きょろきょろして朝食は何を食べたのか覚えてないですが、水上から見える蓮の花の集まりは、さながらモネの睡蓮の如しでした。

大沼からきじひき高原に登ると360度のパノラマが楽しめる展望台があります。湖から見える駒ヶ岳は美しかったですが、高原から見る駒ヶ岳と大沼の景色は奇跡のようです。この山は400年前に大爆発を起こし山上が崩れて今の形になりましたが、元々は富士山のような成層火山だったようで、大沼もその時にできたようです。武田信広は全く違う駒ヶ岳を見たのでしょう。

ここからは函館の町と

噴火湾も見えます。次回函館訪問時は、ここから始めようと思います。





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